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扉はいつもアフマドが壊す

 M女史との授業中、ふとしたことから「主語の重要性」が話題になりました。
 日本語では主語の位置付けがかなり軽いですが、これは「主語が省略可能」というより、そもそもトピック志向な言語ということで、主語志向言語における主語の省略と一緒にしてはいけません。ですが、そう話しても説明し切る自信は到底なく、「日本語では受動態的な表現が好まれる」と言いました。
 アラビア語のフスハーでも、一見「主語の省略」に見える現象がありますが、これは単に動詞の人称変化が厳密で主語を明示しないでも特定できるからで、実際は省略などされていません。アラブ的な文法概念では、日本や欧米で「動詞の活用」として教えられる動詞末尾の部分がダミール(人称代名詞)として説明されるくらいで(女性三人称単数のتは「女性の記号」であって代名詞ではない)、主語はとても大切です(余談ながら、エジプト方言における主語の省略は、普通の「省略」だと思います)。
 また、アラビア語には、一応受動態の文法はあるものの、フスハーでもアーンミーヤでもあまり使われず、受動態の多い文章はركيك(か弱い)とされ、評価されません。英語と比べても、受動態の使用頻度は極めて低いです。
 つまり、主語志向・能動態志向が非常に強いという点で、日本語とは対極にある一面があります。

 日本語における「主語の省略」(前述の通り本当は省略ではないですが)は、時々「責任の不明瞭化につながる」等と、批判の対象になることがありました。手垢にまみれた例ですが、「過ちは繰り返しません」が散々ネタにされたでしょう。
 こうした性質は、日本人の文化的性質とも平行的で、わたしたちはしばしば、作用の原因について深く思考することなく、「自然にそうなる」という事物のとらえ方をします。「国敗れて山河あり」の「山河」のような、無名の動力源が、象徴秩序の向こうで自動的に働いている、というような世界観があります。

 一方、アラビア語の性質もアラブの性質と相同していて、彼らはとにかく「誰のせいやねん」というのが大好きです。
 M女史とالباب مكسور(扉が壊れている。「壊れている」は「壊す」の受動分詞が形容詞的に使われている)という単純な文をネタに話したのですが、そもそもエジプト人は、こういう「誰が壊したのか分からない表現」という時点で軟弱に感じるらしく、すぐ「アフマドが壊した!」「あいつはいつも物を壊すんだ!」「俺も見た!」とか言いたがります。
 日本人なら、アフマドが壊したという証拠や確信がかなり整っていなければこういう言い方をしませんが、彼らは大して根拠もないくせに、平気で「アフマドが壊した!」ととりあえず叫びます。
 アフマドが連れてこられて「いやいや、俺じゃないよ、その時外に出てていなかったよ」とか言うと、「あぁ、確かにその時アフマドはいなかった!」「俺も見た!」とかいう人が出てきて、やっと皆が「じゃあアフマドじゃないな」となるのですが、ここでアフマドに対する謝罪が行われるより、まず「それじゃあ一体誰が壊したんだ?」という方に話題が流れるパターンがよくあります。
 謝るにしても、例の「マーレーシ(怒るな)」という、非常に軽い謝罪で流され、かつアフマドもここで怒ってはいけません。キレると、むしろ「お前じゃないんだろ、わかったからもういいじゃねーか。何キレてんだバカ」とか、非難されるパターンが多いでしょう。
 日本人なら、まず優先するであろう「扉の修理」は、常に後回しです。

 M女史が、半分笑い話として、面白い話をしてくれました。
 「強盗が通行人を襲って、ナイフで刺して財布を盗んで逃げたとする。エジプト人は、まず犯人を追いかける。ナイフで刺された人がいるのに、それより前に犯人をみんなで追いかけて袋叩きにするのが第一。けが人の救助はそれから」。
 まぁ、実際は、ナイフで刺されている人がいるのに放置するなんてことはあり得ないでしょうが、雰囲気的には、確かにこういうノリが非常に強いです。
 ちなみに、「通りがかった人がみんなで追いかけて袋叩き」というのは、冗談ではなく本当です。全く無関係な人でも、「見て見ぬフリ」をすることはまずありえません。「義を見てせざるは勇なきなり」の精神が溢れかえっていて、かつ結構勘違いな「義」で暴走するのがエジプト人です。

 犯罪の聞き込み捜査が行われる場合でも、全然目撃なんてしていないくせに「俺は見た! 中肉中背で、若くも年取ってもいなくて、普通のヤツだった!」みたいに、どうとでも取れることをまずぶちまける人がいるそうです。
 とにかく彼らは、「誰がやったのか」ということにこだわりが強く、かつ「知らない」というのが大嫌いです。これが有名な「エジプトで道を尋ねると、知らないのに嘘の道を教えられる」現象につながっているわけです。

 日本人からすると「無責任」に映って当然ですが、彼らからすれば、その「責任」を徹底追及しない方が「無責任」で、過ちを恐れて何も発言しない態度もまた「無責任」となるのです。
 実際、慣れてくると、彼らの嘘や「知ったかぶり」を見抜くのは簡単です。エジプト人は何でも顔に出るので、目を見ていればすぐ「あーホンマは知らんのやな」とわかります。
 おそらくエジプト人自身も、この辺の「知ったかぶり分」を差し引いて考えているので、最終的にそれほど大問題にならないのでしょう。
 もちろん「知ったかぶり」をあげつらって非難するような態度はいけません。相手のプライドを重んじ、露骨にツッコまずに流してあげるのが礼儀です。
 面倒臭いと言えば面倒臭いのですが、ウェットで人に優しいとも言え、憎めるものではありません。エジプトの文化は極めて家父長制的でマッチョですが、同時にすごくフェミニンだなぁ、と感じることも多いです。

夜の街の子供2
夜の街の子供2 posted by (C)ほじょこ
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テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報

  1. 扉はいつもアフマドが壊す|2010/01/08(金) 00:37:11|
  2. エジプト留学雑記

エジプトにおける人口調整とイスラーム

 M女史との授業で、人口爆発のことが話題になりました。
 日本では少子化が問題になっていますが(わたしは個人は問題だと思わないのですが)、エジプトはまだまだ子沢山で、人口調整が大きなテーマになっています。
 一昔前に比べれば、一家族あたりの子供の数は減っているのですが、それでも四人くらい子供のいる家庭はまったく珍しくありません。M女史の母の叔父は、二十人子供がいたそうです。
 一般に、女性の教育と社会進出が進むにつれ、子供の数は抑制されていくものですが、それなりに女性の教育が普及しているエジプトの都市部でも、いわゆる先進国に比べてまだ子供が多いです。
 一つには、育児補助が充実していることがあり、働いている女性が子供を産んだ場合、一年余りの期間、給与が支給されるそうです(未確認)。
 「それは素晴らしい」というのは早計で、まず、もし国庫負担が100%ではないのだとしたら、そもそも結婚している女性の就業が不利になります。実際、いつ子供を産むかわからない既婚女性の採用は敬遠されています。
 そして、人口調整が必要なのだとしたら、これほど手厚い保護はむしろ国家の将来にとってマイナスだろう、ということが、誰にでも思いつきます。仮に補助を出すにしても、一人目の子供だけで、二人目、三人目については減額・カットするような仕組みにすれば、適度な福祉を充実させることができます。
 ところが、エジプトではそれができないのです。
 これは一重にイスラームの影響で、とにかく子供を産むことは絶対的な善であって、これに対してマイナスな政策は、たとえ誰もがそれが必要だとわかっていても、正面切って口にすることができないのです。
 実際のところ、今の都会の若い夫婦は、経済的負担を敬遠し、何年も子供を作らなかったり、子供の数を制限しているのが普通です。政府もしきりに人口調整の重要さを訴える広報などを流しています。
 それでも、法制度的なところには、なかなかメスを入れられない。建前を尊重しながら「ひっそりと」出産を控える分には大分状況が改善しているわけですが、建前そのものを変えようとすると、建前に疑問を抱いている人すら反対せざるを得ない(こういうことは日本でもあるし、どこでもあると思いますが)。わたし個人としては、出産を控えること自体がハラームだとは思えないのですが、そう一筋縄にはいかないようです。

 さらに、イスラームではなくアラブの(悪しき)伝統として、ひたすら男の子が歓迎される、というものあります。
 父親、というより一族が男の子を待望するあまり、女の子が産まれると「次こそ」と何人も子供をもうけ、結果として子沢山になってしまう、ということがあるようです。
 さらに、やっと男の子が産まれたと思ったら、「もう一人男の子を」などと欲深いことを言い出す父親も珍しくないと聞きます。
 こと人口調整については、「家父長制」が絵に描いて額に入れたような弊害を発しています。

 M女史曰く「信仰そのものは素晴らしい、イスラームだけでなく、どんな信仰も美しい。問題は人間だ。宗教の都合の良いところだけつまみ食いして、都合の良いように使っているから、こういうことになる」。

 話が逸れますが、最後のM女史の「当たり障りなく妥当な意見」を聞いていて思うことは、「無神論者」および「特定の宗教を持たない人」に対してどう接するのか、ということです(両者は異なり、日本人の多くは後者であって、かつてのゴリゴリの共産主義者のような「無神論者」ではない)。人口調整などの問題を巡って「宗教そのものが害毒」という言説が、容易に想像できるからです。
 一応イクスキューズすれば、これが「容易に想像できる」のは、わたしが日本人だからであって、ほとんどのエジプト人には、そう簡単に選択肢に浮上してくる発想ではありません。エジプトだけでなく、世界の多くの国々ではそれが普通でしょう。
 「信仰を持たなくても、それはそれで結構」と言えれば素晴らしい、寛大だ、というのが、大方の日本人、というか世俗化した「先進国」の人々の意見でしょうし、教育ある都会のエジプト人なら対外的にそういう建前を述べることは難しくありません。ですが、これは単に世俗的人間にとって都合の良い意見というだけで、別段公平でも何でもありません。
 「信仰の欠片もなくてもなお許可される」などというのは、世俗社会の「信仰」であって、世俗社会のフレームを元に、「信仰」という「一文化」を世の中に配置する発想にすぎません。このパラダイムに乗って、信仰が選択可能なオプションの一つのように語るのは、既に自分の育った社会の激しいバイアスに飲み込まれていると知るべきです。
 「信仰の欠片もなくてもなお許可される」と建前を述べれば、イスラーム世界が世俗社会とほどよい関係を保つ上では当たり障りがないのですが、はっきり言ってそんなものはペラペラの建前にすぎないし、イスラームとしてそんなものを認めるべきでもないし、わたし個人としても認め難いです。
 そういうある種の「頑迷さ」と静かな狂気(制度化され恒常状態を得たホメオスタシスとしての「狂気」)があるからこそ信仰なのであり、そして、この種の「安定した狂気」があるからこそ、今日も昨日と大して変わらない一日が過ぎ、かつそれに大きな苦しみを覚えずに生を果たすことができるのです。
 人口調整のような問題で、一見信仰がネックになっているように見えたとしても、それを外側から見て軽々しく「信仰の弊害」などと言うことはできないし、もとより「選択可能」なオプションとして信仰がある、というフレームが、既に汚染されているのです。

ラムスィース駅
ラムスィース駅 posted by (C)ほじょこ
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テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報

  1. エジプトにおける人口調整とイスラーム|2010/01/07(木) 02:54:03|
  2. エジプト留学雑記

喧嘩アラビア語

 一般に人懐こいエジプト人。エジプトではمنطوي(ムンタウィー、女性はムンタウィヤ、内気)というのはマイナスの意味しかありません。
 そうは言っても、やたら何にでも首を突っ込む詮索好きも、良しとされるわけではありません。標準レベルが国により違うだけで、引きこもりすぎるのも関わりすぎるのも良くないのは、万国共通でしょう。
 社交的であることはاجتماعي(イグティマーイー、女性はイグティマーイーヤ)とかعشري(アシャリー、女性はアシャリーヤ)と言い、これはポジティヴな意味ですが、行き過ぎた詮索好きはفصولي(フドゥーリー、女性はフドゥーリーヤ)と言い、これはネガティヴです。
 日本語だと「首を突っ込む」ですが、アラビア語(エジプト方言)だと、
يحط مناخير في كل حاجة
 「何にでも鼻先を突っ込む」と表現します。動物っぽくて可愛いです。
 冷静に考えると、日本語の「首を突っ込む」の方が、よく意味がわかりません。首というのは生首とか言う時の「首」で、首から上全部のことでしょうが、それはちょっと突っ込みすぎでしょう。

 と、このように一応「詮索好きが過ぎるのも良くない」とされているにも関わらず、道には大変詮索好きでしつこい男たちが沢山います(笑)。エジプトを一度でも訪れたことのある方、特に女性なら、「年齢は?」「電話番号教えて」と会って一分も経っていないのに畳み掛けられてムカついた経験があることでしょう。
 繰り返しますが、これはエジプトでも無礼なことです。すべてのエジプト男性がこんな調子なわけではありません。ただ、バカがガンガン前景にせり出してくるので、まともな人が背景に沈んで見えなくなっているだけです。
 こういうウザい男にまとわりつかれた時用の喧嘩アラビア語をいくつか。

وإنت مالك
ウェンタ・マーラック
お前の知ったことか、関係ないやろ

مالكش دعوة
マーラクシュ・ダウワ
呼んでねーよ、ほっとけ

سابني
シーブニー
放っといて

سيب الناس فيحالهم
シーブ・ッナース・フィー・ハールフム
人のことは放っておけ

حاجة متخصنيس
ハーガ・マトゥハッスニーシュ
わたしには関係ないわ

إنت رخم
エンタ・リフム
うぜえよ

إنت محعج
エンタ・ムズイグ
迷惑や

إسكت إمشي
ウスクトゥ、イムシー
黙れ、向こう行け

قليل الأدب
アリール・ルアダブ
変態、無教養

غير مؤدب
ゲール・ムアッダブ
失礼やんか

إنت عبيط
エンタ・アビート
あんたバカ?

 すべてエジプト方言で、かつ単独男性に対する形です。女性や複数に対する時は形を変えないといけないものもありますが、ウザいのは大抵男性なので(笑)、これだけでいいでしょう。
 あんまり気安く使って、とんでもないことになっても責任持ちません(笑)。

 一番簡単なのは完全無視してしまうことなのですが、最初は普通の挨拶から始まることも多く、挨拶まで黙殺するのは、それはそれで行儀の良い方法ではありません。大体、芸がなくて面白くも何ともありません。
 本気でキレたら日本語で怒鳴ったり灰皿投げたりすればいいので、これまた簡単ですが、それは別のお話なので割愛。
 エジプトの女性がどうやっているのか観察すると、言葉のジャブ(時に言葉の弾幕)を巧みに繰り出しながら、一定以上の距離に近づけないように牽制しているのです。
 もちろん、この粋に達するのは外国人としては容易ではないのですが、できれば、自分の側に非礼がなく、かつ下手な手出しをさせないよう、コントロールできれば理想です。言葉のサブミッション・アート!

ガーマ
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  1. 喧嘩アラビア語|2010/01/03(日) 04:18:37|
  2. エジプト留学雑記

#と*の読み方

 電話のキーにある#と*。
 日本では「シャープ」「米印」と呼ぶのが一般的だと思います。
 本当は「井げた」と「星印」らしく、以前にネットで「#と♯は違う」という記事が話題になっていましたが、少なくともわたしは余裕で「シャープ」「米印」を愛用しています。
 英語ではPound Key(ハッシュと言うこともある)とStar Key。やはり*は星のようです。
 アラビア語ではどうなるのかというと、少なくともエジプトでは、#はシュッバーク、*はナグマと呼ばれています。ナグマは星なので英語と一緒ですが、シュッバークというのは窓のこと。
 そう言われてみれば、窓に見えなくもありません。
 オチは特にありません(笑)。

 こういう呼び方はお国柄があって良いと思うので、*を「米印」と呼ぶ泥臭さは大好きなのですけれどね。

うちの鳩
うちの鳩 posted by (C)ほじょこ
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  1. #と*の読み方|2010/01/01(金) 04:14:45|
  2. エジプト留学雑記

寛大さより手抜きといい加減

 信仰や「異文化との共存」(この表現はいかにも教科書臭くて嫌いだし、ハッキリ言えば欺瞞だけど)を巡って旅していると、寛大さについて話したり考えたりする機会がどうしても多いです。
 寛大とか寛容とか言えば、それは聞こえが良いですし、どこの国のどこの人でも、寛大であることは素敵なことだ、と思うでしょう。「寛大さ」を理想として掲げておけば、とりあえず文句を言ってくる人はあまりいないし、「異文化との共存のためには寛大さが大切です」とか言っておけば、なかなかケチもつけられません。
 ですが、この「寛大」という言葉がなかなか曲者で、まず、一口に寛大といっても、その性質は文化により異なります。
 さらに、実際に「寛大さ」を実践する段階になると、単に緩めていくだけだと「それは寛大ではなくいい加減なだけだ」とか「いくら何でもやって良いことと悪いことがある」とか「社会の最低限のルールだけは守ってくれないと」等々、細かい異論が噴出して、結局立ち行かなくなることが往々にしてあります。

 問題の根っこは多分、最初の「寛大さ」という理想が、綺麗すぎることにあるのです。
 似た環境・似た文化で育った者同士でも諍いが耐えないのに、見当もつかない世界の人々がやって来たり、こっちから出向いたりすれば、問題の一つや二つ起こるのが当たり前です。それに対処するのに「寛大さ」などという、何だか聖人君子のような理想を持ち出してしまうと、結局「いやー、ウチらそんな立派なものじゃないしなー」と諦めてしまう結果になるのです。
 「寛大さ」という言葉には、現実世界でわたしたちが直面しなければならない、「大したことじゃないけどどうにも不愉快な細かい問題の山」を、単純化しナメてかからせてしまう小奇麗さがあります。
 実際にわたしたちを苛立たせる問題というのは、ほとんどの場合、大したことではありません。電話で喋る声がやたらデカいとか、よく遅刻するとか、挨拶がやたら長いとか、一つ一つ見れば些細なことなのです。「ほとんど一緒で、ちょっと違う」からイライラするのです。こういうタイプのチクチクくるストレスに対しては、大上段に構えた大きな理想はあまり役に立ちません。

 実際のところ、本当に役に立つ心構えというのは、ただ単に「雑」で「いい加減」になることでしょう。
 「雑」とか「いい加減」というのは、初めからプラス一面の言葉ではありません。「いい加減」であることに利点があるにしても、100%ポジティヴな性質だと思う人はあまりいないでしょう。
 そういう、半ば必要悪的なものを覚悟して初めて、現実の中で戦っていけるのです。
 色々問題は起こる。その問題は、多分解決しない。でもとりあえず死なないから、今日はもう寝ろ。
 そんな調子で、テキトーにノラリクラリかわす、ダメダメなやり方が功を奏する場面も沢山あります。
 ですから、最初から「ちょっとダメっぽいことをやらないと乗り越えられない」覚悟を持っておく方が、綺麗な言葉で理想を語るより、ずっと有効でしょう。

 イスラーム研究者の片倉もとこさんが、「ゆとり」と「くつろぎ」から「ゆとろぎ」という言葉を提唱されていましたが、大変失礼ですが、この言葉もちょっと美しすぎます。
 その美しさと「ゆとろぎ」の大切さには異論はないのですが、リアル「ゆとろぎ」には、ゆとりというより単に「怠けている」とか「やっつけ仕事」的な一面もあって、全面的にプラスに見られるものではありません。
 そういう、これまた「ちょっとダメっぽいものでもいいのか」という問いが、美しい言葉の前では忘れられてしまいます。
 ちょっとダメっぽくてもいいんですよ。そういう覚悟が必要だ、ということです。

 「ゆとり」と言えば「ゆとり世代」。
 「ゆとり世代」という言葉に最近込められている「ゆとり教育とか緩いこと抜かしていたから、このザマだよ」なネガティヴなイメージができてしまったのも、元の「ゆとり」という言葉が綺麗すぎることが一因です。
 最初から「手抜き教育」くらい言っておけば、多少抜けたり漏れたりしていても、後から文句をつける人はいません。いや、幾らなんでも「手抜き教育」では採用されないでしょうけれど・・。

 でもですね、本当は「手抜き」くらいダメダメなものが、逆にプラスに働く場面というのがあるでしょう。認めたくないし、大々的に認めてしまうとみんなが手抜きしすぎて困るかもしれませんが、「手抜きもたまにはいいもんだ」くらいドーンと構えて置いたほうが、本当に「手抜きが必要な場面」に出会った時に、堂々と手が抜けるというものでしょう。

 わたしは「寛大」ではないので、そんなものが必須条件なら、到底「異文化との共存」なんてできません。
 でも大雑把でいい加減ですぐ忘れるので、実際のところはそれなりに生きています。神様ありがとう。

追記:
 ふと思い出しましたが、一時期鬱病を「なまけ病」等と呼んで、患者さんを誹謗する言説がありました。個人的には、ぶっちゃけ「なまけ病」でも良いと思っています。問題は「なまけ病」くらいでグダグダ他人のことに因縁つけてくる小町的精神の方でしょう。「なまけ病」、結構じゃないですか。そんなヤツもいるがな。アンタこそ働き病とか小町病とかそんなんやろ。放っとけボケ。

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アスワーン西岸らくだと2ショット posted by (C)ほじょこ
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  1. 寛大さより手抜きといい加減|2009/12/30(水) 01:40:23|
  2. エジプト留学雑記

信仰と道徳を分けて考えること

 クルアーンのユースフ章のタフスィールを読んでいて、ふとしたことからF女史と大変熱い信仰談義になりました。
 彼女は敬虔なムスリマですが、外国人との付き合いが多く、非常に柔軟で幅広い知見を持っています。

 確かكافر不信仰者مشرك多神教徒ملحد無神論者という言葉を巡り「ムスリムなら、例えば牛の肉を食べる時に与えてくれたアッラーに感謝するが、ほとんどの日本人は牛そのものに感謝する。偉大な山を見て敬虔な気持ちなった時、ムスリムはアッラーの偉大さを称えるが、多くの日本人は山そのものに『神性』を見出す。しかし、ここでの『神』はアッラーのような概念とまったく異なり、神様が沢山いる、という意味ではない」とかいう話をしていた流れだったと思います。
 また、以前にも話した「日本人は仏教寺院にも神社にも行くし、時には教会に行ったりすることもある。そういうことを矛盾と感じていない」という話にもなりました。「彼らにとって、そうした場所を尋ねるのは、エジプトの遺跡を訪れるのと大して変わらない。あれはالدين信仰というものではない」と、わたしなりの解釈を語ります(実際、日本人の多くには、الدينという言葉からアラブ人が連想するような「信仰」はないでしょう)。「しかし、だからと言って、彼らが倫理的でないわけではないし、敬虔さを持たないわけではない」。

 彼女は「なるほど」というような反応をし、それからこんな話をしました。
 「日本人や、ヨーロッパの人たちと付き合っていると、とても礼儀正しくて時間にも正確で真面目な人が多い。中にはイスラームを尊重して『お酒も煙草もやらない、豚肉も食べない』という人もいる。ムスリムでないのに、どうしてそんなことをするのか、不思議に思う。でも、ムスリムなのに不品行を行っている人と、ムスリムでないのにムスリムのような暮らしをしている人、どっちが神様にとって本当の『ムスリム』なのか、時々考える」。
 この言葉が、当のムスリムから出てきたことに、わたしは大変感激しました。
 そして、わたしが返した言葉はこうです。
 「どちらが真のムスリムかと言えば、それはアッラーを信じているけど不品行なムスリムの方だ。もちろん、彼は『良い』ムスリムではない。しかし、アッラーを信じている、というその一点において、彼は紛れもなくムスリムだ。一方、いかに品行方正で、ムスリムのような暮らしをしている人がいても、アッラーを信じていないのなら、彼はムスリムではない」。
 ここでわたしが言いたかったのは、いわゆる「道徳」と信仰というのは、別のものだ、ということです。
 これは非常に重要なポイントです。

 彼女は素晴らしい聡明さで拙いわたしの説明を理解してくれたのですが、これは一般のムスリムが容易にできることではありません。
 例えば、彼女は偶然にも、この前日に母親にわたしのことを話したくれたそうです。
 「日本人で、すごく勉強家で良い人で、変わっていて、人が好きで、イスラームのこともよく勉強している」(事実かどうかは怪しいですw)。
 すると、お母さんはこう答えたそうです。
 「へー、その子はムハッガバ(ヒジャーブをしているムスリマ)なの?」
 「いやいや、彼女はムスリマじゃないよ」
 「え、どういうこと!?」
 これが市井のムスリムの反応です。
 つまり彼らの多くは、道徳と信仰を一体のものとして考えているのです。信仰がなければ道徳もない。品行方正で、かつイスラームについても齧っているくせに、なおムスリムではない、なんて意味不明なのです。

 もちろん、信仰には「道徳的」要素が非常に多いし、道徳の中には信仰に起源を持つものが少なくありません。両者には深い関係があります。
 それでも、信仰と道徳は二つの別のものです。
 信仰なしでも道徳は成り立つし、逆に道徳なしでも信仰は成り立ちます。

 この「混同」は、ムスリムではなく、例えば全般に信仰と縁の薄い日本人においても、別の形で見出すことができます。
 「信仰のある人が、なぜこんなことを」「信仰というのは人を幸せにするためのものじゃないの」。
 こういう発想は、すべて信仰と道徳をごっちゃに考えているところから来るものです。
 信仰は人を幸せにするためのものではありません。そんな「ご利益」で動くものは、信仰ではありません。
 強いて言えば、神様を幸せにするためのものが、信仰です。人間が幸せになるかどうかは、すべてインシャアッラー、神様の思し召し次第です。
 信仰を持ち、正しく実践することで結果的に幸せになる人は沢山いますが、それは神様がそう望んだからです。とても信仰熱心でかつ正しい信仰実践をしていても、不幸な人だっています。

 日本人の多くが、異なる宗教に由来する「寺院」を平気で二股かけられるのは、彼らの発想が基本的に「ご利益宗教」だからです。
 服屋さんに行って「この服にしようかな、あの服にしようかな。こっちは上司受けしそうだし、こっちは彼氏受けしそうだな。両方買ったらもっといいかな」とショッピングするようなものです。
 あっちに詣で、こっちに詣で、ご利益二倍なら尚いいじゃない!というのは、人間が神様を選ぶ態度であって、少なくともالدينアッ=ディーンではありません。
 信仰というのは、神様の側が人間を選ぶものです。
 人間には選択の権利などありません。圧倒的無力を曝け出し跪くものです。

 「以前に、ヨルダンに社会学的調査で長期滞在した日本人の本を読んだ。彼は再三ムスリムになるよう勧められたが、結局改宗しなかった。その理由を『アッラーを信じていないから』と言っている。彼は品行方正な人物だと思うけれど、それはムスリムであることにとって、決定的な要素ではない。逆に、彼の滞在した村にはお酒も嗜むダメなムスリムがいて、自分でも『俺はムスリム失格だ』と言っていたそうだけれど、それでも彼はムスリムだ。なぜなら、アッラーを信じて、それを基準に生きているからだ。改宗しなかった彼の判断は正しい」。

 信仰というのは、ご利益を求めて信じることでもないし、道徳的であることでもありません。
 信仰実践の中には、社会道徳に沿う部分も沢山あります。「殺すな、盗むな」といった基本的行いから、弱者への配慮、喜捨の義務などは、社会道徳とも一致するでしょう。
 一方、礼拝のように、社会道徳上は何の意味もないものもあります。その人がいくら礼拝しようが、世の中には何の影響もありません。人間の中で得している人は一人もいません。
 得している(?)のは、神様一人だけです。
 また場合によっては、道徳と信仰が矛盾することだってあるでしょう。イスラームでは、厳密に言えば民法的要素までもが細かく決められていますが、社会によってはこれは通念上の「道徳」と齟齬をきたす場合も考えられます。
 極端な話をすれば、ある特殊な状況下では、戦争も正当化されるかもしれません。もしも「どんな理由があっても戦争はダメ」という立場を採るなら、これとは矛盾します(戦争を奨励する信仰などというのは、多分存在しないと思いますが)。

 戦争という際どい領域に触れてしまったので、少し脱線すると、もし「仮に」イスラームがある種の戦争を正当化したとしても、わたしは構わない、と考えています。
 信仰の有無・種類を問わず、世界中で戦争をしています。もちろん、戦争がないに越したことはないでしょうが、とにかく戦争はあります。仮に信仰の名の下に戦争が行われていたとして、それがなぜ特別に非難されるのでしょうか。
 多分、その背景には、「信仰というのは人を幸せにするためのものだ」とか「世俗社会はどうあれ、信仰者が人を殺してはいけない」といった、「混同」と甘っちょろい考えがあるのでしょう。
 「国家」だったら、人を幸せにしなくても許されるのでしょうかね。
 名前だけの信仰を、小奇麗な本棚の上に飾っておいて、劣化ウラン弾でも何でも好き放題に使うくらいなら、信仰と共に戦場に立ち、すべてを共に目撃すべきではないですか。血で汚れた服を脱ぎ捨てないと、祈ることもできないのですか。
 戦いもまた、人間たちの世界の重要な一部であり、神様は全部ご存知です。「戦争については、うちは専門外だから」というような神様など、到底信じられません。
 もしも、どうしても「正しい戦争」と言わなければならないなら、その時こそ神の御名の下に語るべきです。その言と心中する覚悟がないなら、「正しい戦争」などと口走らないことです。銃口を向け、その時神が共にないなら、バレルを下ろさなければならない。神が共にあるなら、迷わず引き金を引け。

 話を戻します。
 信仰はシグルイであって、道徳の教科書のような小奇麗なものではありません。
 道徳と信仰が矛盾するなら、たとえ謗りを受けても、神様のために尽くすのが信仰です。
 多くの信仰は、社会道徳とも矛盾しないし、むしろ社会道徳を推進してきたからこそ、今日まで世の中とうまくやってきたわけですが、それは信仰において一番大事なことではありません。

 こうして、道徳の飾りを剥ぎ取った後に残る信仰というのは、非常に純粋であると同時に、時に狂気のような荒々しさを備えたものです。
 こういう極限の信仰について思考できるエジプト女性と出会えたことは、本当にアッラーの恵みだと思います。こんな話が通じる友人は、日本でもほとんどいないし、エジプトでもそうそう見つけられないでしょう。

 ムスリムの中には、彼らの道徳基準がいかに素晴らしいかを力説し、かつ、日本人の品行方正さを見て(まぁ人に拠ると思いますが)、「まるでムスリムのようだ」と言う人もいます。
 しかし、そういうムスリムも、傍から見ている日本人も、イスラームについての理解が欠けています。
 信仰はそんなお行儀の良いものではないし、ムスリムたちも、外の世界と付き合って行こうと思うなら、道徳性などという安い部分で、自分たちをアピールするのを諦めるべきです。

 道徳的であることは、もちろん結構です。
 誰にとって結構かと言えば、人間たちにとってです。
 人間たちにとって都合の良い人間であることを、多分アッラーは喜ばれるのでしょう。
 しかし、重要なのは、アッラーが喜ばれるかどうか、それだけであって、もしアッラーが喜ぶなら、人間たちにとって都合が悪い存在であっても、そちらを採るべきです。

 わたし個人としては、アッラーを信じているので、いずれ「悪いムスリマ」になる時が来そうです。「良いムスリマ」は・・・ちょっと無理っぽいかな(笑)。

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  1. 信仰と道徳を分けて考えること|2009/12/18(金) 07:32:39|
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日本の新聞がものすごい読みにくい

 エジプトの新聞は毎日買って読んでいますが、日本語勉強中のNちゃんが「最近、日本の新聞の見出しを読む練習をしている」というので、某施設にあった日本の新聞を一緒に読んでみました。日本では新聞を購読していなかったので、本当に久しぶりです。
 で、改めて日本の新聞を見直してみて感じたのは「だめだこりゃ」という一言です。
 何がダメって、非常に読みにくい。無駄に分厚い。
 エジプトの新聞は、概ねシンプルです。ページ数も少ないし、パパッと全体を概観できる。広告も日本ほどは多くない。
 それに比べて、日本の新聞は何だか雑誌みたいで、あれもこれも詰め込みすぎた結果、一覧性が損なわれています。Nちゃんが「エジプトの新聞は、政治面、経済面と分かれているけれど、日本は?」と聞くので「大体一緒だよ」と言ってみたのですが、どの面も何だかハッキリしないし、工夫を凝らしているらしいレイアウトがかえって見にくいし、エジプトの新聞より遥かに見通しが悪いです。
 日本の新聞宅配はもう風前の灯火で、紙新聞は駅の売店などで売られる形態に限られていく気がしますが(エジプトに限らず多くの国では最初からこの販路だけ)、こんな分厚くては出先で買う気にもなれません。

 おまけに、記事見出しが意味不明すぎ。
 どんな言語でも、新聞記事の見出しというのには、独特の文体があります。英語でもアラビア語でもそうです。
 ですから「慣れ」が必要なのは普通なのですが、それにしても日本の新聞の見出しは酷い。日本人のわたしが見ても、文脈を知らないとさっぱり何の記事だかわからないものが多いです。
 毎日読んでいるエジプトの新聞は、外国人のわたしが読んでも、見出しから主題を取るくらいならパッと見てほとんど理解できます。もちろん、中にはローカル色の強い記事もあるし、コラムは難しいし、スポーツ・芸能欄とかサッパリわかりませんが(日本語でもわからん)、一面記事や政治・経済・社会の主たるニュースについては、大体要旨が取れます。
 わたしがエジプトの新聞を読んでいると、エジプト人がよく見出しを指差して「これ読んでみろ」とか言ってくるので、真似してNちゃんに読んでもおうとしたのですが、学習者に読ませられる見出しを探すの大変です。どんな言語の学習者も、一定のレベルに達したら「新聞を読む」という修行をするものだと思いますが、日本の新聞は、日本語学習者に胸を張って「読んでごらん」と言える代物では到底ないです。スポーツ新聞なんかじゃなくて、一流の新聞がこんな調子なんですから、読むものがありません。

 元来、新聞というのはシンプルなもので、パッと見て大体様子が掴める、というのが重要な役割だった筈です。日本の新聞が、量的にも質的にも、こんな肥満体になってしまったのは、一体どうしてなのでしょうか。昔はもっとシンプルなデザインで、素朴な作りだったと思うのですが、「進化」した結果、かえって使えない媒体になっています。
 なんと言うか、頭の悪いwebデザイナーが「これがweb2.0です」とか言って、やたら重くて直観的でないページを作ってしまったみたいなのが、日本の新聞ですね。
 それくらいなら、ジオシティの残骸みたいな、めちゃくちゃweb1.0的な新聞の方がずっと良いです。

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