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扉はいつもアフマドが壊す

 M女史との授業中、ふとしたことから「主語の重要性」が話題になりました。
 日本語では主語の位置付けがかなり軽いですが、これは「主語が省略可能」というより、そもそもトピック志向な言語ということで、主語志向言語における主語の省略と一緒にしてはいけません。ですが、そう話しても説明し切る自信は到底なく、「日本語では受動態的な表現が好まれる」と言いました。
 アラビア語のフスハーでも、一見「主語の省略」に見える現象がありますが、これは単に動詞の人称変化が厳密で主語を明示しないでも特定できるからで、実際は省略などされていません。アラブ的な文法概念では、日本や欧米で「動詞の活用」として教えられる動詞末尾の部分がダミール(人称代名詞)として説明されるくらいで(女性三人称単数のتは「女性の記号」であって代名詞ではない)、主語はとても大切です(余談ながら、エジプト方言における主語の省略は、普通の「省略」だと思います)。
 また、アラビア語には、一応受動態の文法はあるものの、フスハーでもアーンミーヤでもあまり使われず、受動態の多い文章はركيك(か弱い)とされ、評価されません。英語と比べても、受動態の使用頻度は極めて低いです。
 つまり、主語志向・能動態志向が非常に強いという点で、日本語とは対極にある一面があります。

 日本語における「主語の省略」(前述の通り本当は省略ではないですが)は、時々「責任の不明瞭化につながる」等と、批判の対象になることがありました。手垢にまみれた例ですが、「過ちは繰り返しません」が散々ネタにされたでしょう。
 こうした性質は、日本人の文化的性質とも平行的で、わたしたちはしばしば、作用の原因について深く思考することなく、「自然にそうなる」という事物のとらえ方をします。「国敗れて山河あり」の「山河」のような、無名の動力源が、象徴秩序の向こうで自動的に働いている、というような世界観があります。

 一方、アラビア語の性質もアラブの性質と相同していて、彼らはとにかく「誰のせいやねん」というのが大好きです。
 M女史とالباب مكسور(扉が壊れている。「壊れている」は「壊す」の受動分詞が形容詞的に使われている)という単純な文をネタに話したのですが、そもそもエジプト人は、こういう「誰が壊したのか分からない表現」という時点で軟弱に感じるらしく、すぐ「アフマドが壊した!」「あいつはいつも物を壊すんだ!」「俺も見た!」とか言いたがります。
 日本人なら、アフマドが壊したという証拠や確信がかなり整っていなければこういう言い方をしませんが、彼らは大して根拠もないくせに、平気で「アフマドが壊した!」ととりあえず叫びます。
 アフマドが連れてこられて「いやいや、俺じゃないよ、その時外に出てていなかったよ」とか言うと、「あぁ、確かにその時アフマドはいなかった!」「俺も見た!」とかいう人が出てきて、やっと皆が「じゃあアフマドじゃないな」となるのですが、ここでアフマドに対する謝罪が行われるより、まず「それじゃあ一体誰が壊したんだ?」という方に話題が流れるパターンがよくあります。
 謝るにしても、例の「マーレーシ(怒るな)」という、非常に軽い謝罪で流され、かつアフマドもここで怒ってはいけません。キレると、むしろ「お前じゃないんだろ、わかったからもういいじゃねーか。何キレてんだバカ」とか、非難されるパターンが多いでしょう。
 日本人なら、まず優先するであろう「扉の修理」は、常に後回しです。

 M女史が、半分笑い話として、面白い話をしてくれました。
 「強盗が通行人を襲って、ナイフで刺して財布を盗んで逃げたとする。エジプト人は、まず犯人を追いかける。ナイフで刺された人がいるのに、それより前に犯人をみんなで追いかけて袋叩きにするのが第一。けが人の救助はそれから」。
 まぁ、実際は、ナイフで刺されている人がいるのに放置するなんてことはあり得ないでしょうが、雰囲気的には、確かにこういうノリが非常に強いです。
 ちなみに、「通りがかった人がみんなで追いかけて袋叩き」というのは、冗談ではなく本当です。全く無関係な人でも、「見て見ぬフリ」をすることはまずありえません。「義を見てせざるは勇なきなり」の精神が溢れかえっていて、かつ結構勘違いな「義」で暴走するのがエジプト人です。

 犯罪の聞き込み捜査が行われる場合でも、全然目撃なんてしていないくせに「俺は見た! 中肉中背で、若くも年取ってもいなくて、普通のヤツだった!」みたいに、どうとでも取れることをまずぶちまける人がいるそうです。
 とにかく彼らは、「誰がやったのか」ということにこだわりが強く、かつ「知らない」というのが大嫌いです。これが有名な「エジプトで道を尋ねると、知らないのに嘘の道を教えられる」現象につながっているわけです。

 日本人からすると「無責任」に映って当然ですが、彼らからすれば、その「責任」を徹底追及しない方が「無責任」で、過ちを恐れて何も発言しない態度もまた「無責任」となるのです。
 実際、慣れてくると、彼らの嘘や「知ったかぶり」を見抜くのは簡単です。エジプト人は何でも顔に出るので、目を見ていればすぐ「あーホンマは知らんのやな」とわかります。
 おそらくエジプト人自身も、この辺の「知ったかぶり分」を差し引いて考えているので、最終的にそれほど大問題にならないのでしょう。
 もちろん「知ったかぶり」をあげつらって非難するような態度はいけません。相手のプライドを重んじ、露骨にツッコまずに流してあげるのが礼儀です。
 面倒臭いと言えば面倒臭いのですが、ウェットで人に優しいとも言え、憎めるものではありません。エジプトの文化は極めて家父長制的でマッチョですが、同時にすごくフェミニンだなぁ、と感じることも多いです。

夜の街の子供2
夜の街の子供2 posted by (C)ほじょこ
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テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報

  1. 扉はいつもアフマドが壊す|2010/01/08(金) 00:37:11|
  2. エジプト留学雑記

エジプトにおける人口調整とイスラーム

 M女史との授業で、人口爆発のことが話題になりました。
 日本では少子化が問題になっていますが(わたしは個人は問題だと思わないのですが)、エジプトはまだまだ子沢山で、人口調整が大きなテーマになっています。
 一昔前に比べれば、一家族あたりの子供の数は減っているのですが、それでも四人くらい子供のいる家庭はまったく珍しくありません。M女史の母の叔父は、二十人子供がいたそうです。
 一般に、女性の教育と社会進出が進むにつれ、子供の数は抑制されていくものですが、それなりに女性の教育が普及しているエジプトの都市部でも、いわゆる先進国に比べてまだ子供が多いです。
 一つには、育児補助が充実していることがあり、働いている女性が子供を産んだ場合、一年余りの期間、給与が支給されるそうです(未確認)。
 「それは素晴らしい」というのは早計で、まず、もし国庫負担が100%ではないのだとしたら、そもそも結婚している女性の就業が不利になります。実際、いつ子供を産むかわからない既婚女性の採用は敬遠されています。
 そして、人口調整が必要なのだとしたら、これほど手厚い保護はむしろ国家の将来にとってマイナスだろう、ということが、誰にでも思いつきます。仮に補助を出すにしても、一人目の子供だけで、二人目、三人目については減額・カットするような仕組みにすれば、適度な福祉を充実させることができます。
 ところが、エジプトではそれができないのです。
 これは一重にイスラームの影響で、とにかく子供を産むことは絶対的な善であって、これに対してマイナスな政策は、たとえ誰もがそれが必要だとわかっていても、正面切って口にすることができないのです。
 実際のところ、今の都会の若い夫婦は、経済的負担を敬遠し、何年も子供を作らなかったり、子供の数を制限しているのが普通です。政府もしきりに人口調整の重要さを訴える広報などを流しています。
 それでも、法制度的なところには、なかなかメスを入れられない。建前を尊重しながら「ひっそりと」出産を控える分には大分状況が改善しているわけですが、建前そのものを変えようとすると、建前に疑問を抱いている人すら反対せざるを得ない(こういうことは日本でもあるし、どこでもあると思いますが)。わたし個人としては、出産を控えること自体がハラームだとは思えないのですが、そう一筋縄にはいかないようです。

 さらに、イスラームではなくアラブの(悪しき)伝統として、ひたすら男の子が歓迎される、というものあります。
 父親、というより一族が男の子を待望するあまり、女の子が産まれると「次こそ」と何人も子供をもうけ、結果として子沢山になってしまう、ということがあるようです。
 さらに、やっと男の子が産まれたと思ったら、「もう一人男の子を」などと欲深いことを言い出す父親も珍しくないと聞きます。
 こと人口調整については、「家父長制」が絵に描いて額に入れたような弊害を発しています。

 M女史曰く「信仰そのものは素晴らしい、イスラームだけでなく、どんな信仰も美しい。問題は人間だ。宗教の都合の良いところだけつまみ食いして、都合の良いように使っているから、こういうことになる」。

 話が逸れますが、最後のM女史の「当たり障りなく妥当な意見」を聞いていて思うことは、「無神論者」および「特定の宗教を持たない人」に対してどう接するのか、ということです(両者は異なり、日本人の多くは後者であって、かつてのゴリゴリの共産主義者のような「無神論者」ではない)。人口調整などの問題を巡って「宗教そのものが害毒」という言説が、容易に想像できるからです。
 一応イクスキューズすれば、これが「容易に想像できる」のは、わたしが日本人だからであって、ほとんどのエジプト人には、そう簡単に選択肢に浮上してくる発想ではありません。エジプトだけでなく、世界の多くの国々ではそれが普通でしょう。
 「信仰を持たなくても、それはそれで結構」と言えれば素晴らしい、寛大だ、というのが、大方の日本人、というか世俗化した「先進国」の人々の意見でしょうし、教育ある都会のエジプト人なら対外的にそういう建前を述べることは難しくありません。ですが、これは単に世俗的人間にとって都合の良い意見というだけで、別段公平でも何でもありません。
 「信仰の欠片もなくてもなお許可される」などというのは、世俗社会の「信仰」であって、世俗社会のフレームを元に、「信仰」という「一文化」を世の中に配置する発想にすぎません。このパラダイムに乗って、信仰が選択可能なオプションの一つのように語るのは、既に自分の育った社会の激しいバイアスに飲み込まれていると知るべきです。
 「信仰の欠片もなくてもなお許可される」と建前を述べれば、イスラーム世界が世俗社会とほどよい関係を保つ上では当たり障りがないのですが、はっきり言ってそんなものはペラペラの建前にすぎないし、イスラームとしてそんなものを認めるべきでもないし、わたし個人としても認め難いです。
 そういうある種の「頑迷さ」と静かな狂気(制度化され恒常状態を得たホメオスタシスとしての「狂気」)があるからこそ信仰なのであり、そして、この種の「安定した狂気」があるからこそ、今日も昨日と大して変わらない一日が過ぎ、かつそれに大きな苦しみを覚えずに生を果たすことができるのです。
 人口調整のような問題で、一見信仰がネックになっているように見えたとしても、それを外側から見て軽々しく「信仰の弊害」などと言うことはできないし、もとより「選択可能」なオプションとして信仰がある、というフレームが、既に汚染されているのです。

ラムスィース駅
ラムスィース駅 posted by (C)ほじょこ
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テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報

  1. エジプトにおける人口調整とイスラーム|2010/01/07(木) 02:54:03|
  2. エジプト留学雑記

寛大さより手抜きといい加減

 信仰や「異文化との共存」(この表現はいかにも教科書臭くて嫌いだし、ハッキリ言えば欺瞞だけど)を巡って旅していると、寛大さについて話したり考えたりする機会がどうしても多いです。
 寛大とか寛容とか言えば、それは聞こえが良いですし、どこの国のどこの人でも、寛大であることは素敵なことだ、と思うでしょう。「寛大さ」を理想として掲げておけば、とりあえず文句を言ってくる人はあまりいないし、「異文化との共存のためには寛大さが大切です」とか言っておけば、なかなかケチもつけられません。
 ですが、この「寛大」という言葉がなかなか曲者で、まず、一口に寛大といっても、その性質は文化により異なります。
 さらに、実際に「寛大さ」を実践する段階になると、単に緩めていくだけだと「それは寛大ではなくいい加減なだけだ」とか「いくら何でもやって良いことと悪いことがある」とか「社会の最低限のルールだけは守ってくれないと」等々、細かい異論が噴出して、結局立ち行かなくなることが往々にしてあります。

 問題の根っこは多分、最初の「寛大さ」という理想が、綺麗すぎることにあるのです。
 似た環境・似た文化で育った者同士でも諍いが耐えないのに、見当もつかない世界の人々がやって来たり、こっちから出向いたりすれば、問題の一つや二つ起こるのが当たり前です。それに対処するのに「寛大さ」などという、何だか聖人君子のような理想を持ち出してしまうと、結局「いやー、ウチらそんな立派なものじゃないしなー」と諦めてしまう結果になるのです。
 「寛大さ」という言葉には、現実世界でわたしたちが直面しなければならない、「大したことじゃないけどどうにも不愉快な細かい問題の山」を、単純化しナメてかからせてしまう小奇麗さがあります。
 実際にわたしたちを苛立たせる問題というのは、ほとんどの場合、大したことではありません。電話で喋る声がやたらデカいとか、よく遅刻するとか、挨拶がやたら長いとか、一つ一つ見れば些細なことなのです。「ほとんど一緒で、ちょっと違う」からイライラするのです。こういうタイプのチクチクくるストレスに対しては、大上段に構えた大きな理想はあまり役に立ちません。

 実際のところ、本当に役に立つ心構えというのは、ただ単に「雑」で「いい加減」になることでしょう。
 「雑」とか「いい加減」というのは、初めからプラス一面の言葉ではありません。「いい加減」であることに利点があるにしても、100%ポジティヴな性質だと思う人はあまりいないでしょう。
 そういう、半ば必要悪的なものを覚悟して初めて、現実の中で戦っていけるのです。
 色々問題は起こる。その問題は、多分解決しない。でもとりあえず死なないから、今日はもう寝ろ。
 そんな調子で、テキトーにノラリクラリかわす、ダメダメなやり方が功を奏する場面も沢山あります。
 ですから、最初から「ちょっとダメっぽいことをやらないと乗り越えられない」覚悟を持っておく方が、綺麗な言葉で理想を語るより、ずっと有効でしょう。

 イスラーム研究者の片倉もとこさんが、「ゆとり」と「くつろぎ」から「ゆとろぎ」という言葉を提唱されていましたが、大変失礼ですが、この言葉もちょっと美しすぎます。
 その美しさと「ゆとろぎ」の大切さには異論はないのですが、リアル「ゆとろぎ」には、ゆとりというより単に「怠けている」とか「やっつけ仕事」的な一面もあって、全面的にプラスに見られるものではありません。
 そういう、これまた「ちょっとダメっぽいものでもいいのか」という問いが、美しい言葉の前では忘れられてしまいます。
 ちょっとダメっぽくてもいいんですよ。そういう覚悟が必要だ、ということです。

 「ゆとり」と言えば「ゆとり世代」。
 「ゆとり世代」という言葉に最近込められている「ゆとり教育とか緩いこと抜かしていたから、このザマだよ」なネガティヴなイメージができてしまったのも、元の「ゆとり」という言葉が綺麗すぎることが一因です。
 最初から「手抜き教育」くらい言っておけば、多少抜けたり漏れたりしていても、後から文句をつける人はいません。いや、幾らなんでも「手抜き教育」では採用されないでしょうけれど・・。

 でもですね、本当は「手抜き」くらいダメダメなものが、逆にプラスに働く場面というのがあるでしょう。認めたくないし、大々的に認めてしまうとみんなが手抜きしすぎて困るかもしれませんが、「手抜きもたまにはいいもんだ」くらいドーンと構えて置いたほうが、本当に「手抜きが必要な場面」に出会った時に、堂々と手が抜けるというものでしょう。

 わたしは「寛大」ではないので、そんなものが必須条件なら、到底「異文化との共存」なんてできません。
 でも大雑把でいい加減ですぐ忘れるので、実際のところはそれなりに生きています。神様ありがとう。

追記:
 ふと思い出しましたが、一時期鬱病を「なまけ病」等と呼んで、患者さんを誹謗する言説がありました。個人的には、ぶっちゃけ「なまけ病」でも良いと思っています。問題は「なまけ病」くらいでグダグダ他人のことに因縁つけてくる小町的精神の方でしょう。「なまけ病」、結構じゃないですか。そんなヤツもいるがな。アンタこそ働き病とか小町病とかそんなんやろ。放っとけボケ。

アスワーン西岸らくだと2ショット
アスワーン西岸らくだと2ショット posted by (C)ほじょこ
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  1. 寛大さより手抜きといい加減|2009/12/30(水) 01:40:23|
  2. エジプト留学雑記

気遣いの違い、聖俗分離の危うさ

 土曜日。
 話の流れで、日本とエジプトにおける「気遣い」の違いが話題になる。
 エジプト人はとにかくおせっかいで、常に人を助けるチャンスを狙っています。頼んでもいないのに「何か問題ない?」「困ったことがあったらいつでも電話してよ!」とやる気満々です。
 そして、うっかり「ちょっと体調が悪い」などと口にしようものなら、次から次にお見舞いコールがかかってきて、寝ている暇もありません(笑)。
 日本にも「声をかけてあげる親切」というのはありますが、同時に「放っておいてあげる親切」も尊重されます。逆にエジプトにだって、「他人に構いすぎるな」という発想がないわけではないのですが、比率として、圧倒的に「介入派」です。
 これが時に鬱陶しい、という話をしたところ、F先生は「それは面白い」と乗ってくれて、「確かに、エジプトでは、こちらから声をかけないと不親切ということになる」と言います。
 「わたし個人は、放っておかれても何も感じない。でも、以前に秘書の子が一日だけ体調を崩して休んだのだけれど、次の日学校に来たら、とても悲しそうにしていた。誰からも電話がかかってこなかったのがショックだったらしい。エジプトでは、確かにそういう時は、積極的に声をかけた方が良い」。
 あぁ、ついていけない・・・。

 F女史に教えてもらった隠れ家的お勉強スペースで勉強。静かで本が沢山あって、天国のよう。

 日曜日。
 ルクソールでお会いしたAさんを尋ねて某ホテルを襲撃するも、既に別のホテルに移った後。代わり?に噂に聞いていた若い日本人留学生さんとお話する。超かわいらしくて心配になる。なんかドキドキしました(笑)。

 月曜日。
 二ラウンドの長丁場授業。図書館で、普通のエジプト人にアーンミーヤについての質問に答えて貰う。
 アーンミーヤについても大量に質問が溜まっているのですが、授業は今読んでいるフスハーのテクストで一杯一杯で、全然質問する時間がありません。時間がもったいないので、基本的に自習ですべてこなし、分からないところだけ矢継ぎ早に質問しているのですが、それでも全然時間が足りない。

 火曜日。
 ご飯を奢ってもらってしまう。
 四五年連絡を取っていなかったオランダ在住の友人が電話をかけてくれる。感動。ちなみに時差は一時間。ヨーロッパは近いですね。
 オランダはビザが厳しいらしく、彼女が突然「日本もEUだったらいいのに!」と物凄いことを言い出す。トルコだってなかなか入れないのに、無茶言うたらあかんがな。
 でも本当に、日本がもう少し近かったら、往復も簡単だし時差も少ないし、とても楽しいのですけれどね。
 そんなことを考えて電話を切った後、彼女以上の妄想を閃きました。
 日本とイスラエルをかえっこしましょうよ。
 何せ神国ですから、シオニストに進呈する約束の地として不足はないでしょう(断言)。で、パレスチナ人に土地を返して、残ったちっこいところにぎゅうぎゅうにみんなで住みましょう。日本人の狭さ耐性と素晴らしい秩序形成能力をもってすれば、なんとかなります。みんな宗教とかテキトーだし、愛想だけは良いから、パレスチナ人ともあんまり喧嘩しない。お上品だから、トルコの次くらいには見事EU加盟。沖には海底油田があるって説もあるし、ウハウハですぜ。
 ネタです、一応。

 水曜日。
 夜にとうとうAさんと再会。延々とカフェでダベる。
 今後のこととか、イロコイ話とか、超楽しかったです。
 彼女は世界中旅している旅プロで、カイロ引きこもりなわたしと違って、本当に色んなことを知っています。
 「キリスト教圏の国は治安が悪い」と言うので、「アメリカやヨーロッパのキリスト教徒なんて名前だけだし、キリスト教じゃなくて近代化の問題でしょ」と返したら、興味深いポイントを指摘されました。
 「中南米の国のほとんどはキリスト教で、かつ未だ伝統色が強く、信仰も根強い。にも関わらず、犯罪は非常に多く、治安が悪い」。
 中南米というのは、まったく視野の中にありませんでした。

 ことを宗教に還元してしまうのは大変危険ですし、彼女もわたしもそんな還元を本気で信じてはまったくいません。ですから、まったく根拠薄弱な連想にすぎませんが、キリスト教圏に一般的に見られる「信仰と世俗の分離」には、以前から疑問があります。
 「信仰と世俗の分離」というと、多くの日本人はむしろポジティヴにとらえるでしょうし、政教分離に反対しようとか、神権国家を翼賛しようという気はありません。政治体制というより、大衆に共有される思想的基盤について考えています。つまり、「政教分離」ではなく「聖俗分離」のことです。
 思想的基盤として「信仰と世俗の分離」は、世俗のところで悪どい真似をしても、信仰の世界に行って懺悔すれば許される、というようなイージーな「宗教の使い方」に堕ちてしまう危険を孕んでいます(もちろん、まともなキリスト者にそんなアホはいないでしょうが、どんな国のどんな宗教も、大半は「あんまりお上品ではない信仰者」が占めている)。
 ごめんで済んだら警察要りません。
 イスラームは社会の隅々まで介入しようとする傾向があり、「信仰の世界と世俗の世界」という二分的発想が非常に希薄です。わたしとしては、戦争にすらコミットしようとするイスラームの「天網恢恢」な勢いを大変肯定的にとらえています。ストリートを監視できないような弱い神様は要りません。神様なんだから、戦場でも売春宿でも、至るところに介入して当然です。そして、良い行いと悪い行いがある以上、許す専門ではなく罰する力もあるのは至って自然なことでしょう。許す専門の神様なんて、都合の良いゴミ捨て場にされるのが関の山です。
 世の中には、許されることと許されないことがある。
 この身も蓋もないことを粛々と実行しているのがイスラームで、大変地に足がついているのですが、一方で「宗教」というものに日本人の多くが期待する性質とは一致しない、というのもよく理解できます。全然「超越的」ではありませんから(一部のスーフィズムやイスラーム哲学を除く)。
 少なからぬ日本人の抱くであろう反感に対し、別に反論しようという気はありません。本音を言えば、直観的には、むしろそちらの「分離型」の発想の方がしっくりくるくらいで、わたしのイスラームへの接近は、直観に抗いザラザラしたところを無理に進むところから始まっています。人一倍「超越的」な信仰世界に惹かれながら、それを信仰の枠内で地に繋ぎ止める、という運動が、イスラームへわたしを招いていったようにも思いますが、これはまったく個人的なお話。
 繰り返しますが、この話は茶飲み話の流れで出てきた思いつきであって、本気で宗教に還元し説明するような思想には反対です。また、仮に相関性があったとしても、因果性があるのかは怪しいですし、またこの性質が教義に由来するのか、単なる相関的な社会的属性に由来するのかもおぼつきません。
 ただ、一般にキリスト教圏の方が治安が悪く、イスラーム圏が全般に治安がよろしい、というのは、単純に事実でしょう。特に「中東」というと、日本では物騒なイメージが強いですが、実際のところは、ほとんどの地域(都市部)は非常に安全です。ニューヨークなんかの方が遥かに危ないでしょう。
 シオニストがいなければもっと安全なんですがね(笑)。

 木曜日。
 休憩を挟みつつ六時間一対一授業。疲れが気持ちよい。
 F女史と一緒にメトロで帰る。メトロの車内にある表示が、あちこちスペルミスしているのが話題になる。
 エジプト人(アラビア語話者)にとっては問題ない「ミス」なのはわかるし、わたしでも読めるわけですが、正確なフスハーの文法から言うと「間違っ」ている表記というのは、あちこちに見られます。まぁ、日本語だって、おっちゃんの書いた張り紙なんて怪しいものですが・・・。

 相変わらずネットが丸一日二日くらい余裕で落ちますが、完全に慣れてしまいました。
 「次ネットがつながったらこれやろう、これ調べよう」というメモを、忘れないように書いています。お買い物みたいで楽しいです。

らくだのモニカ
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  1. 気遣いの違い、聖俗分離の危うさ|2009/12/28(月) 03:53:16|
  2. エジプト留学日記

ヨロピコ、二種類の寛容

 土曜日。
 エレベータで一緒になったおっちゃんが、何の前触れもなく「お前はパキスタン人か? インド人か? イタリア人か? 韓国人か?」と話しかけてくる。
 中国以外の国籍を四つも畳み掛けられたのは初めてですが、その四つにおよそ一貫性がありません。少なくともイタリア人じゃないやろ、普通に見て。
 「に、日本だけど・・」と答えたら、「そうか、日本か! はっはっはーっ」と豪快に笑い、鼻歌を歌いながらエレベータを降りて行きました。

 日曜日。
 某日本関係施設の図書館で勉強していたところ、一人のエジプト人男性が、大変礼儀正しい日本語で話しかけてきました。
「すいません、質問してもよろしいでしょうか」
「え、あ、はい、どうぞ」
「『ヨロピコ』というのは、どういう意味ですか?」
「よ、ヨロピコ!? それはどういう文脈で・・・あ、アニメの中ですか?」
「はい、そうです」
 一応「『ヨロピコ』とは『よろしく』のことだが、ふざけた言い方であり、アニメの中では許されるが、使わない方が良い」と説明しておきました。男性は満足したようで、小声で「ヨロピコ、ヨロピコ・・」と呟きながら席へ帰っていきました。
 まぁ、アニメでも何でも、祖国について興味を持って貰えたら大変光栄なんですけれどね・・・。
 あなたたちの文学やら古典やら理解するために七転八倒し、大変お世話になっているのに、わたしが役に立てるのは『ヨロピコ』の意味を教えるくらいですか。日本って一体・・・。
 これからもヨロピコね、親愛なるエジプト市民。

 月曜日。
 「日本でガマール(ムバーラク大統領の次男)がガマル(ラクダ)と呼ばれている」という話をF女史にしたところ、大爆笑される。「ガマルと言われたらガマールも怒るよね」。
 出来すぎた話なので、新手のヌクタ(笑い話)として広まってくれたら面白いです。

 火曜日。
 約6時間一対一の授業を受け、5時間くらいは図書館で自習。
 時間がない。時間が欲しい。ああ、もっと勉強していたい。
 ヘロヘロになったところで小難しい古典など読んでも、一行読むのに四苦八苦なのですが(別にヘロヘロじゃなくても大変だけど)、そのわからなさと格闘しながら交わしている会話は、まったく無意識で、丁度この「ヒーヒーなんか言ってる」くらいが、正味の実力なんじゃないか、とふと考える。
 日本に戻って、家も全部引き払って、もう一度戻ってきてひたすら勉強したい、とかなり本気で考える。でも正直、勉強以外のことでは、すごく住みたいとは思わないですけれどね。

 水曜日。
 勉強は順調なものの、また道でかなりバッドな体験があり、もう道路に飛び出して死のうかと思ったけれど、たまたま柵があって面倒くさいからやめました。
 でも、直後にF女史が話に乗ってくれて、かなり救われる。
 傷つけるのも人間だし、救うのも人間。
 そんなのは世界中どこでも同じだけれど、この異様に人間臭濃い街では、どちらの強度も東京の比じゃないです。

 「都会は人間が冷たい」というのは、ある程度普遍的に当てはまる傾向でしょう。
 人が沢山密集すれば、接近しすぎないような機制が働く、というのが第一。そして、都会というのは、田舎者の集まりなわけであって、この「故郷を捨てた田舎者」は、都会においては共同体的な根を一度失っている。程度の差こそあれ、都会というのは、人間を一度根っこから引き抜いてしまうものであり、人に対して良くも悪くも距離ができる、というのはあるでしょう(だから「都会の貧乏は悲惨」)。

 で、カイロも東京も同じく大都会なわけですが、人の質は全然違います。カイロだってエジプトの田舎とは違うわけだけれど、密集しているのに尚ねっちゃりぬっとり絡みつくような人間関係が生きています。
 それは多分、エジプトの社会が、トッド風に言えば「内婚制共同体家族」をベースにしているからであって、要するに大家族主義なわけです。核家族的、もしくは直系家族的であれば、都会に出れば横のつながりはできにくいです。直系家族なら都会と田舎の直のパイプというのは残るかもしれないけれど、新たなネットワークというのはあまり広がりません。
 でも、大家族主義の場合、数世代のうちにまた「大きな家族」が再構築されることもあるし、それ以前に家族ごとドーンと移動してくるケースが多い。だから、都会と言っても、それほど「ねっとり感」が軽減せず、みんながそれに慣れているので、依然として凄まじい人懐っこさを発揮してくるわけです。
 それに救われることもあるし、傷つけられることもある。要するに普通の家族と一緒で、この街は一つの「家族」なのです。

 トッドで思い出しましたが、移民問題解決の唯一の方法は、「フランス式」、つまり粒状にしてバラバラにして混ぜて同化する、という方向だけだと言います。つまり「多分化主義」では解決しない。
 これにはまったく同意で、「多分化主義」のその単位となる「文化」をどう決めるのか、権力が「文化」を区切れるのか、という問題がまずあるし、無理に区切っても「文化」間の壁が厚くなるだけです。
 ガンガン外婚して、混ぜちゃうしかない。
 日本のような直系家族主義も、移民とうまくやるのはとても難しい。混ざらないから。

 で、エジプトのような共同体家族の場合、やってくる者には、確かにある意味「寛容」です。
 ですが、寛容の種類というのが違って、彼らの寛容とは、バラバラで距離を置いて粒状に混ざっているのではなく、共同体の中に取り込んでしまう懐の深さなのです。巨大な家族の中の一成員にすぎないから、多少変でも消化しちゃう寛容。これは、新しい家族が入ってきて、お隣に住むのとは違います。寛容だけれど、もう取り込まれているから、勝手なことは許されないし、放っておいてくれない。
 ビジネスの場も公共空間も全部「共同体的」「家族的」だから、ビジネスライクな「合理性」は到底望めない。その代わり、「秩序なき秩序」があらゆるところで介入し、結果的に「そこそこ」な安定には達します。

 で、こういう大家族システムが、核家族システムや直系家族システムと対峙した時どうなるかといえば、大家族は「家族的寛容」を持ってはいるのだけれど、本当に家族の外だと判断した時には、全然寛容ではなくなります。核家族は優しくないけれど、家族の外との「そこそこ」のお付き合いには慣れている。彼らはそれが彼らなりの「寛容」だと思っている。ここで二つの寛容がぶつかるわけです。
 この辺が、エジプト人(というよりムスリム)が、昨今のヨーロッパにおける「不寛容」に怒ったり、一部の欧米人がイスラームを「不寛容」だと考えてしまう根の一つのように思われます(イスラームとアラブをごっちゃにしちゃいけませんが、大家族主義はイスラームと親和性が高い)。

 思い出すのは、「長男のわがままと次男のわがまま」というお話です。
 みんなで食事に行くのに、一人だけ違うものを食べたい人がいたとします。
 長男は「じゃあ、俺は寿司食べに行くから、みんなは焼肉楽しんできてよ」と言う。次男は「なんで焼肉やねん! 寿司行こうよ!」と言う。
 どっちもわがままなのですが、わがままの種類が違う。
 大家族主義は、次男的にわがまま。核家族は長男的にわがまま。
 二種類の寛容と、二種類のわがまま。
 それで、「うちは寛容なのに、アンタなんて融通きかないんや!」という果てしない小競り合いが延々続くことになるわけです。

 この解法として「お互いのやり方を知り尊重する」というのが、教科書的にあがってくるでしょうが、それはあくまで「多分化主義」的視点であって、結局のところ同化はしません。別の国なら無理に同化しなくたってもちろんOKなのですが、少なくとも問題は解決はしていない。ただ、小競り合いを抑制したり、先送りしているだけです。
 先送りで上等だし、千年くらいこの調子で先送りしたら良いと思うのですが、もし本当に「混ぜちゃおう」としたら、その混ぜ方自体が異なっているので、容易にはいきません。チープなグローバリズムもコスモポリタリズムも、ぬかるみにハマってにっちもさっちもいかなくなるわけです。

 「多文化主義」は移民の解法としては有効ではないけれど、この場合、「真の解法」がかなり絶望的なので、先送りだけでしのいでいくしかないのかもしれません。ベストじゃないソリューションを声高に叫ぶのは気が重いのですが、逆に、ここで言う「真の解法」こそが幻想にすぎない、とも言えます。
 多分、真の解法なんてない。グローバリズムは嘘っぱち。
 昨今、世界各地でナショナリズムが盛り上がったり右傾化が進んでいるのには、一理あります。もちろん、手放しで賛成などしないけれど、極右よりもボンボンリベラルやグローバリゼーションの方が遥かに危険で、看過できません。
 だから敢えて、「その場しのぎ」の案を押し、千年くらい騙し騙しやっていこうよ、と言ってみます。ツケは回すためにある。回せ回せ。

 何でこんな話になったんでしたっけ?
 そうそう、しんどいことがあったのよね。
 それで、F女史とお喋りして忘れたわけだけれど、ここでこうやって話がズレていって、何の話かわからなくなるのも、「お喋り療法」と似ていますね。忘れた忘れた。
 忘れたことは忘れたから忘れておきます。

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  1. ヨロピコ、二種類の寛容|2009/12/18(金) 06:16:52|
  2. エジプト留学日記

エジプト人の見た日本

 ふと思い出したのですが、先日、日本を十日ほど訪れたことのあるエジプト人が、日本の印象を語っているのを聞く機会がありました。
 エジプト人同士の会話を横で聞いていたので、今ひとつ心もとないのですが、こんな感じでした。

・初日は東京のオリンピックなんちゃらという施設に泊まり、刑務所みたいだった
・高知にホームステイした。とても素敵なところだった
・エジプトを出る時「知らない人がこんなに親切にしてくれるのはエジプトだけだから気をつけろ」と言われたけれど、日本人も親切だった。ただし、こちらから尋ねなければ勝手に助けてはくれない(エジプト人は呼びもしないのに助け始めるw)
・道に人がいない(エジプトでは家の前とかその辺に椅子を置いておっちゃんがダベっている姿が基本なので、道が文字通りの通路でしかなく、公共空間として使われていないのに驚いたらしい)
・気候は素晴らしい。エジプトよりずっと良い(わたし個人はあんまり同意しないw)
・唯一の問題は食べ物。不味い

 食べ物が不味いというのはどういうことなのだろう、と思って聞くと「ワニの肉を食べさせられた」とか言います。外人が来たと思って変わったものを出したのが裏目に出たのでしょうか。一体どういう状況だったのでしょう・・・。
 また、朝ご飯に魚が出たりするのも、受け付けないようです。エジプト人は魚も食べるし、彼は大好きとのことですが、朝は豆!というのがエジプトの定番で、魚は食べたくないそうです。わたしも朝から魚なんて食べないですが、温泉旅館の朝食みたいな感じだったのでしょうか。
 食べ物の不満を言われて意地になるのもみっともないですが、ワニを食べて「日本食不味い」と言われるのは心外です。卓球で負けたボクサーが「あいつは弱い」って言われているような気分です。せめてボクシングで負かしてくれ!という。
 親愛なる祖国の皆さん、外人が来た時は、張り切らずに普通のものを普通に出してあげてましょう・・・。

 そういえば、先日訪れたルクソールOASISのYさんの旦那さんが日本を訪れた時は、以前にちらっとネタにさせて頂いたように「木に異様にはしゃいでいた」以外に、

・食べ物は美味しい。不安で用意した乾燥モロヘイヤを全部捨てた
・デパートで働くYさんの友人を一緒に訪れたところ、彼女が接客を続けていて驚いた

 というのがありました。
 エジプトなら、何人客が行列していようが、友達が来たら仕事を放り出して挨拶します。
 エジプト人的には、日本人の態度は「友達が来ているのに何て薄情なヤツだ」と映るようです。まぁそれもわからないではないですね。日本人は仕事優先しすぎです。
 エジプト人には、もうちょっとだけ仕事を優先して頂きたいですが・・。

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  1. エジプト人の見た日本|2009/12/10(木) 02:44:38|
  2. エジプト留学雑記

神様夜露死苦! 動物最高! 蝿砂無用!

 わたしがすぐ動物と遊ぼうとするので、親しいエジプト人によく注意されます。
 実際、カイロの街にいる動物たち(野良猫、野良犬、ロバ、馬、羊、ヤギその他)は、衛生的ではないし、ものによっては危険なので、安易に手を出さない方が正解です。
 でも、彼らがわたしを諌めるのには文化的要因もあって、動物と人間の間の溝が、少なくともわたしの感覚よりずっと深いようです。イスラーム的には、何と言っても人間が一番なわけで、動物はあくまで動物、ペットにして部屋で飼うなんてのは邪道、という発想が底流を流れているように感じます。
 わたしは人間と付き合っているよりロバと遊んでいる方が楽しい社会不適応者なので、ロバが暇そうにしているとつい弄って遊びたくなるのですが、ロバなんてのは下等な生き物であって、人間様が付き合って良い相手ではないようです。
 アラブ的な感覚で言うと、美しい動物というのはカモシカとか馬とかラクダであって、ロバは冴えない存在です。働き者だしちっこくて可愛いし、車買うより絶対ロバが欲しい!と思うのですが、ロバの何が至らないと言うのでしょう。馬なんて速すぎて怖いじゃないですか。なんか顔長いし。あたしゃロバでいいよ、ロバで。
 ちなみに、カイロの猫は日本の猫と違って荒んでいます。彼らの餌はデフォルトごみだし、毛並みも悪いし片目のない子も多いです。人間の人口比率と一緒で、やたら子猫を沢山見るのですが、子供のうちに死んでしまう猫が多いのかもしれません。


 フーティー(一人掛けのソファ、仏語由来、「ティー」に強勢)がفوتيهと表記されていて、「なぜفوتيだけじゃダメなの?」と尋ねたら、「第二音節に強勢を持ってくるため」と教えて貰えました。هは発音されないのですが、فوتيةと書いたら「フーティーヤ」と読んでしまうし、فيتيだけだと第一音節にアクセントが来てしまうし、結果的にこの表記に落ち着いているようです。面白い!
 アーンミーヤの「ハーマルブータ」は謎がいっぱいです。


 以前に見かけた「英語圏の新聞は結構修辞的な表現が多用されていて、英語学習教材には向かない」といった記述を、ふと思い出す。
 確かに、新聞というのは意外とかっこいいレトリックが使われていることもあるし、時事的な語彙がないと理解できない記事も多々あるのですが、新聞も難しいというのでは、言語なんて永遠に学習できない気がします。
 「アンタ本当に字読めんの?」という風情の物売りのオバチャンが道端に腰掛けて新聞を読んだりしていますから、新聞なんて誰でも読めるんです。そういう風にできていなければ、売れないんですから。ジャーヒリーヤの詩を読もうってんじゃないんですから、簡単に決まっているんです。
 英語については全然愛がないのでどうでもいいですが、日本における外国語学習は、全般に語彙や表現を軽視しすぎている気がします。TOEICなんて典型です。人生ナメすぎています。新聞読むのに二千も三千も字を覚えないといけない素晴らしい言語の使い手が、そんなあっさりハードル下げてどうするんですか。
 フスハーとアーンミーヤの乖離がこんな激しい国で、ダミ声でバナナ売ってるオバチャンが字を読めているんだから、わたしに読めないわけがないんです。あたしゃこれでも大学出てるんだよ! コンチクショウ!


 我が家の電気のスイッチの一つがバカになっていて、普通に押したぐらいだとバネで戻ってしまい、スイッチを切ることができません。寝る時は「ハッ!」と掌底で叩き込んで消しています。時々、それでも寝ている時に勝手にスイッチが入って、超ムカつきます。
 ちゃんと修理しようとせず、対処療法の連続でしのいでいる辺り、既に脳がエジ化している気がします。


 道端でティッシュ売りの少女を見る。まだ小学校一、二年生くらい。
 よくある風景ですが、この少女は、一応ティッシュを並べて客を待ってはいるものの、一緒に汚れた教科書を地べたに置いて、一心にノートに書写しています。
 わたしが1ポンド置いてティッシュを取っても、まだノートに集中しています。
 「勉強してるの? 勉強は大事だよ。役に立つから、絶対続けてね」と言うと、やっと顔をあげて、無言のまま僅かに微笑んでくれました。手を振ると、ちゃんと手を振って返してくれます。
 これくらいしかできなくてごめんよ。わたしも帝国主義者の犬だ。
 革命しかないよ革命しか。革命は任侠なんですよ。どっちに走ればいいやらわかりゃしない。コンチクショウ。


 最近見かけた、素敵ロゴのトゥクトゥク。

パンキッシュなアッラーフ・アクバル
パンキッシュなアッラーフ・アクバル posted by (C)ほじょこ

 الله أكبر(アッラーフ・アクバル 神は偉大なり)と書いてあります。
 この手の文句が書いてあるのは、「宗教的な場所」にまったく限られず、普通の商店やら屋台やらタクシーやら、至るところにステッカーなどで貼ってあります。日本で車に交通安全のお守りをぶら下げているくらいの身近なノリです。
 それは良いのですが、このトゥクトゥクは「アッラーフ・アクバル」のロゴがパンキッシュで、どちらかというと悪魔っぽいです。トゥクトゥクの文化は、マイクロバスやタクシーの更に十倍くらいヤンキー的で、無意味にサイドミラー十個くらいつけて電飾ギラギラに改造しているのをよく見かけるのですが、この車体は「神様最高!夜露死苦!」みたいでちょっとウケます。


 魚売りの少年。



 「写真撮らせてくれ」と言ったら、「魚やる」「サバいてやるから大丈夫だ」と言うのですが、出かけしなで、魚なんか貰っても困るので、遠慮させて貰いました(こういうのを断るのは本当に大変!)。
 少年が子供たちを乱暴に追っ払っていますが、こういうのも普通の扱いです。別に怒ってないです(多分)。
 魚に蝿がたかっていますが、蝿のたかっていない食べ物なんてないので、火を通せば全然問題ありません(多分)。


 蝿で思い出しましたが、エジプトの生活の基本は、蝿と砂との戦いなんじゃないか、と思うことがあります。
 というか、人間が暮らしていたら、蝿が湧いて、野良猫や野良犬が湧いてくる(本当に「湧く」という感じで溢れている)のは、本来当然ですよね。衛生的で住みやすい環境というのは、凄まじい営為の果てに勝ち取られるもので、裸で提供されるものではありません。カイロでもこの調子なのだから、もっと田舎とか、スーダンあたりに行ったら、遥かにハードな生活が待ち構えていて、掃除と買い物と料理で一日が終わりそうな気がします。
 砂の脅威は日本にはないものですが、部屋の中でも、一日放っておくとテーブルの上に埃がたまります。モップで床を掃除すると、すぐ泥水になります。これでは下水管が詰まるのも当然です。
 機械にしても、日本では気にしたこともなかった「防塵性能」が非常に重要だ、と感じるようになりました。街中ならいざ知らず、砂漠で自動車が動かなくなったら、そのまま死につながります。兵器なみにタフでなければ、ラクダの方がマシな筈です(そう思うと動物って本当にすごい!)。
 日本ではどんどんお洒落なメカが登場し、古いものは捨てられる一方ですが、「開けて直せる」ってとても大切なことです。「ユニットごと交換」な仕掛けというのは、物流インフラが整備されている場所でしか通用しないもので、ちょっと不便なところに行けば、多少ゴツくてブサイクでも、イザとなれば自分で開けて直せるメカの方がずっと頼りになるはずです。

 日本で捨てられているバイクの大方は、キャブレターを掃除すれば動くようになる、という話を聞いたことがありますが、プリミティヴなメカというのは、掃除一つで復活してくれることが結構多いです。キャブレターというのは、魔法のように精巧なもので、あれを「プリミティヴ」などと言ったら怒られると思いますが・・。

 蝿と砂から逃れるには、ひたすら毎日掃除するしかありません。阿部公房の世界です。
 でも、それが人間の暮らしというものです。系を区切って、その内部だけは支配権が及ぶようにしよう、というのが、人間的な生活の基本でしょう。
 だから、お掃除というのは非常に重要です。人間の基本はお掃除です。
 鬱で自殺しそうになったら、掃除すれば治ります。というか、蝿やら砂やら外敵が多すぎて死んでる場合じゃないです。
 土地は誰のものか、と言ったら、その場所を掃除している人のものです。
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  1. 神様夜露死苦! 動物最高! 蝿砂無用!|2009/10/26(月) 05:17:24|
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