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信仰と道徳を分けて考えること

 クルアーンのユースフ章のタフスィールを読んでいて、ふとしたことからF女史と大変熱い信仰談義になりました。
 彼女は敬虔なムスリマですが、外国人との付き合いが多く、非常に柔軟で幅広い知見を持っています。

 確かكافر不信仰者مشرك多神教徒ملحد無神論者という言葉を巡り「ムスリムなら、例えば牛の肉を食べる時に与えてくれたアッラーに感謝するが、ほとんどの日本人は牛そのものに感謝する。偉大な山を見て敬虔な気持ちなった時、ムスリムはアッラーの偉大さを称えるが、多くの日本人は山そのものに『神性』を見出す。しかし、ここでの『神』はアッラーのような概念とまったく異なり、神様が沢山いる、という意味ではない」とかいう話をしていた流れだったと思います。
 また、以前にも話した「日本人は仏教寺院にも神社にも行くし、時には教会に行ったりすることもある。そういうことを矛盾と感じていない」という話にもなりました。「彼らにとって、そうした場所を尋ねるのは、エジプトの遺跡を訪れるのと大して変わらない。あれはالدين信仰というものではない」と、わたしなりの解釈を語ります(実際、日本人の多くには、الدينという言葉からアラブ人が連想するような「信仰」はないでしょう)。「しかし、だからと言って、彼らが倫理的でないわけではないし、敬虔さを持たないわけではない」。

 彼女は「なるほど」というような反応をし、それからこんな話をしました。
 「日本人や、ヨーロッパの人たちと付き合っていると、とても礼儀正しくて時間にも正確で真面目な人が多い。中にはイスラームを尊重して『お酒も煙草もやらない、豚肉も食べない』という人もいる。ムスリムでないのに、どうしてそんなことをするのか、不思議に思う。でも、ムスリムなのに不品行を行っている人と、ムスリムでないのにムスリムのような暮らしをしている人、どっちが神様にとって本当の『ムスリム』なのか、時々考える」。
 この言葉が、当のムスリムから出てきたことに、わたしは大変感激しました。
 そして、わたしが返した言葉はこうです。
 「どちらが真のムスリムかと言えば、それはアッラーを信じているけど不品行なムスリムの方だ。もちろん、彼は『良い』ムスリムではない。しかし、アッラーを信じている、というその一点において、彼は紛れもなくムスリムだ。一方、いかに品行方正で、ムスリムのような暮らしをしている人がいても、アッラーを信じていないのなら、彼はムスリムではない」。
 ここでわたしが言いたかったのは、いわゆる「道徳」と信仰というのは、別のものだ、ということです。
 これは非常に重要なポイントです。

 彼女は素晴らしい聡明さで拙いわたしの説明を理解してくれたのですが、これは一般のムスリムが容易にできることではありません。
 例えば、彼女は偶然にも、この前日に母親にわたしのことを話したくれたそうです。
 「日本人で、すごく勉強家で良い人で、変わっていて、人が好きで、イスラームのこともよく勉強している」(事実かどうかは怪しいですw)。
 すると、お母さんはこう答えたそうです。
 「へー、その子はムハッガバ(ヒジャーブをしているムスリマ)なの?」
 「いやいや、彼女はムスリマじゃないよ」
 「え、どういうこと!?」
 これが市井のムスリムの反応です。
 つまり彼らの多くは、道徳と信仰を一体のものとして考えているのです。信仰がなければ道徳もない。品行方正で、かつイスラームについても齧っているくせに、なおムスリムではない、なんて意味不明なのです。

 もちろん、信仰には「道徳的」要素が非常に多いし、道徳の中には信仰に起源を持つものが少なくありません。両者には深い関係があります。
 それでも、信仰と道徳は二つの別のものです。
 信仰なしでも道徳は成り立つし、逆に道徳なしでも信仰は成り立ちます。

 この「混同」は、ムスリムではなく、例えば全般に信仰と縁の薄い日本人においても、別の形で見出すことができます。
 「信仰のある人が、なぜこんなことを」「信仰というのは人を幸せにするためのものじゃないの」。
 こういう発想は、すべて信仰と道徳をごっちゃに考えているところから来るものです。
 信仰は人を幸せにするためのものではありません。そんな「ご利益」で動くものは、信仰ではありません。
 強いて言えば、神様を幸せにするためのものが、信仰です。人間が幸せになるかどうかは、すべてインシャアッラー、神様の思し召し次第です。
 信仰を持ち、正しく実践することで結果的に幸せになる人は沢山いますが、それは神様がそう望んだからです。とても信仰熱心でかつ正しい信仰実践をしていても、不幸な人だっています。

 日本人の多くが、異なる宗教に由来する「寺院」を平気で二股かけられるのは、彼らの発想が基本的に「ご利益宗教」だからです。
 服屋さんに行って「この服にしようかな、あの服にしようかな。こっちは上司受けしそうだし、こっちは彼氏受けしそうだな。両方買ったらもっといいかな」とショッピングするようなものです。
 あっちに詣で、こっちに詣で、ご利益二倍なら尚いいじゃない!というのは、人間が神様を選ぶ態度であって、少なくともالدينアッ=ディーンではありません。
 信仰というのは、神様の側が人間を選ぶものです。
 人間には選択の権利などありません。圧倒的無力を曝け出し跪くものです。

 「以前に、ヨルダンに社会学的調査で長期滞在した日本人の本を読んだ。彼は再三ムスリムになるよう勧められたが、結局改宗しなかった。その理由を『アッラーを信じていないから』と言っている。彼は品行方正な人物だと思うけれど、それはムスリムであることにとって、決定的な要素ではない。逆に、彼の滞在した村にはお酒も嗜むダメなムスリムがいて、自分でも『俺はムスリム失格だ』と言っていたそうだけれど、それでも彼はムスリムだ。なぜなら、アッラーを信じて、それを基準に生きているからだ。改宗しなかった彼の判断は正しい」。

 信仰というのは、ご利益を求めて信じることでもないし、道徳的であることでもありません。
 信仰実践の中には、社会道徳に沿う部分も沢山あります。「殺すな、盗むな」といった基本的行いから、弱者への配慮、喜捨の義務などは、社会道徳とも一致するでしょう。
 一方、礼拝のように、社会道徳上は何の意味もないものもあります。その人がいくら礼拝しようが、世の中には何の影響もありません。人間の中で得している人は一人もいません。
 得している(?)のは、神様一人だけです。
 また場合によっては、道徳と信仰が矛盾することだってあるでしょう。イスラームでは、厳密に言えば民法的要素までもが細かく決められていますが、社会によってはこれは通念上の「道徳」と齟齬をきたす場合も考えられます。
 極端な話をすれば、ある特殊な状況下では、戦争も正当化されるかもしれません。もしも「どんな理由があっても戦争はダメ」という立場を採るなら、これとは矛盾します(戦争を奨励する信仰などというのは、多分存在しないと思いますが)。

 戦争という際どい領域に触れてしまったので、少し脱線すると、もし「仮に」イスラームがある種の戦争を正当化したとしても、わたしは構わない、と考えています。
 信仰の有無・種類を問わず、世界中で戦争をしています。もちろん、戦争がないに越したことはないでしょうが、とにかく戦争はあります。仮に信仰の名の下に戦争が行われていたとして、それがなぜ特別に非難されるのでしょうか。
 多分、その背景には、「信仰というのは人を幸せにするためのものだ」とか「世俗社会はどうあれ、信仰者が人を殺してはいけない」といった、「混同」と甘っちょろい考えがあるのでしょう。
 「国家」だったら、人を幸せにしなくても許されるのでしょうかね。
 名前だけの信仰を、小奇麗な本棚の上に飾っておいて、劣化ウラン弾でも何でも好き放題に使うくらいなら、信仰と共に戦場に立ち、すべてを共に目撃すべきではないですか。血で汚れた服を脱ぎ捨てないと、祈ることもできないのですか。
 戦いもまた、人間たちの世界の重要な一部であり、神様は全部ご存知です。「戦争については、うちは専門外だから」というような神様など、到底信じられません。
 もしも、どうしても「正しい戦争」と言わなければならないなら、その時こそ神の御名の下に語るべきです。その言と心中する覚悟がないなら、「正しい戦争」などと口走らないことです。銃口を向け、その時神が共にないなら、バレルを下ろさなければならない。神が共にあるなら、迷わず引き金を引け。

 話を戻します。
 信仰はシグルイであって、道徳の教科書のような小奇麗なものではありません。
 道徳と信仰が矛盾するなら、たとえ謗りを受けても、神様のために尽くすのが信仰です。
 多くの信仰は、社会道徳とも矛盾しないし、むしろ社会道徳を推進してきたからこそ、今日まで世の中とうまくやってきたわけですが、それは信仰において一番大事なことではありません。

 こうして、道徳の飾りを剥ぎ取った後に残る信仰というのは、非常に純粋であると同時に、時に狂気のような荒々しさを備えたものです。
 こういう極限の信仰について思考できるエジプト女性と出会えたことは、本当にアッラーの恵みだと思います。こんな話が通じる友人は、日本でもほとんどいないし、エジプトでもそうそう見つけられないでしょう。

 ムスリムの中には、彼らの道徳基準がいかに素晴らしいかを力説し、かつ、日本人の品行方正さを見て(まぁ人に拠ると思いますが)、「まるでムスリムのようだ」と言う人もいます。
 しかし、そういうムスリムも、傍から見ている日本人も、イスラームについての理解が欠けています。
 信仰はそんなお行儀の良いものではないし、ムスリムたちも、外の世界と付き合って行こうと思うなら、道徳性などという安い部分で、自分たちをアピールするのを諦めるべきです。

 道徳的であることは、もちろん結構です。
 誰にとって結構かと言えば、人間たちにとってです。
 人間たちにとって都合の良い人間であることを、多分アッラーは喜ばれるのでしょう。
 しかし、重要なのは、アッラーが喜ばれるかどうか、それだけであって、もしアッラーが喜ぶなら、人間たちにとって都合が悪い存在であっても、そちらを採るべきです。

 わたし個人としては、アッラーを信じているので、いずれ「悪いムスリマ」になる時が来そうです。「良いムスリマ」は・・・ちょっと無理っぽいかな(笑)。

タンヌーラ5
タンヌーラ5 posted by (C)ほじょこ

『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆
『イエスはなぜわがままなのか』岡野昌雄 信仰と一目惚れ
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  1. 信仰と道徳を分けて考えること|2009/12/18(金) 07:32:39|
  2. エジプト留学雑記

日本人と宗教、タヒーナの思い出

 F先生の授業で、「日本の文化について何か文章を書いてきて」と宿題を出され、真面目に用意してあったのですが、ノートを忘れて、結局口頭で全部話すことになりました。
 「文化って、ざっくりしすぎやろ」と思ったのですが、手始めにちょっと重いですが宗教ネタから入ってみることにしました。
 こんなお話です。
 ある作家が、「日本人の80%は仏教徒で、70%が神道の信者だ」と書き、それを読んだアメリカ人が「この作家は簡単な百分率も知らないのか」と驚いたそうです。
 F先生も「え?」と驚いて、面白いくらいツカミにかかってくれます。こういう時のエジプト人は、めちゃくちゃ素直に大袈裟なリアクションを返してくれるので、トーク冥利に尽きます。
 日本人なら、別に驚きはしないでしょう。同じ人間が、「ある時は仏教の寺院に行き、ある時は神社に行く」のは、日本ではよくあることですから。
 しかし、エジプト人でムスリマの彼女にとっては、やはり相当奇異なことのようで「一体どういうことなの??」と、非常に素直に疑問を持ってくれます。
 ここから先はわたし個人の考えですが、ほとんどの日本人には、دين(ディーン、信仰)というものはないし、日本における仏教や神道も、多くの場合は「ディーン」ではない、と思っています。
 もちろん、日本人に信仰の名に値するものがまったく存在しない、というわけではありません。でもその「信仰」は、少なくともアラビア語話者が「ディーン」と言って想定するような性質のものではないし、「日本人の主なディーンは何だ」と問われて、正直に答えようとするなら、ここから話し始めないといけないでしょう(でも面倒なので普通はそこまで話さないw)。
 「もちろん、一部の信仰熱心な人は違う。彼らはスーフィーのような存在で、仏教のスーフィーなら、髪を剃って寺院で暮らし、普通の仕事はせず、信仰が彼の職業であるかのように生活する。一方で、それ以外の日本人は、宗教は『スーフィー』のやることで、自分には関係ないと思っている。多くのムスリムとはまったく異なる」「日本人の大多数が寺院や神社に行くのは、キレイな建物を見たり慣習に倣ったりしているだけだ。時には、自分がいるのが仏教寺院なのか神社なのか認識していないことすらある」。
 「それは、一人のエジプト人が、時にガーマに行き、時に教会に行くようなもの?」と先生は笑っています。そんなことはもちろん、エジプトでは絶対にあり得ません。
 「そうだけれど、彼らの意識は違う。一部の信仰熱心な人以外にとって、寺院も神社も別に信仰の場ではない。年始には多くの日本人が神社に行くけれど、誰も理由など考えていない。単にみんなが行くから自分も行くだけだ」「仏教の寺院に行き、神社に行けば、神様がもっと沢山になって得だ、という考え方もある」と、面白おかしく語ったら、大爆笑してもらえて楽しかったです。

 ちなみに「仏教のスーフィー」というのは変な言い回しですが、以前にS先生が語っていた内容によると、「スーフィズムالتصوفというのはイスラームに限ったものではない、あらゆる信仰にスーフィズムがあり得る」とのことなので、言って言えないことはないのかもしれません(もちろん、ここでは説明の便宜上そう言っただけ)。

 これくらいまくし立てたところで、F先生がふと「あなたは本当に変わっているねぇ」と言います。
 「え、変?」と聞き返すと、「変な日本人」。
 「沢山の日本人学生に会ったけれど、皆ニコニコしているだけあまり喋らない。『わかった?』と聞いてもナアムとかアイワしか言わない。あなたはめちゃくちゃ喋るし、身振りもエジプト人みたいで、何でもハッキリ言う。全然違う」。
 「日本人は一般にあまり沢山喋らないし、日本でははっきりものを言うのは好まれない。特に否定的なことは、かなり遠まわしに言うのが普通だ。わたしのような人間は、『良くない日本人』だ」
 そう言うと、本当にストレートに「確かに『良くない日本人』だね。あははは」と返されてしまいました。
 超直情径行で口と手と足が常に脳みそに先行する性格が、人生で初めてプラスに働いているようです。エジプトに住みたい・・・。
 「人によるけれど、一般に日本人は『言わないでも通じる』ということを重んじる。言わないとわからない人は嫌われる。確かに、言葉抜きで理解できれば素晴らしいし、ずっと一緒に住んだりしていれば、そういうこともできるだろう。でも、特に違う環境で育った人と話す時は、まず何でも言葉にしないといけない、とわたし個人は考えている。『わたしは理解した』と言いたいなら、単に『はい』『わかった』とか言うだけでは不十分だ。『あなたの考えはこういうことだ』と説明できなければならないし、『この点にわたしは同意するが、ここは考えが違う、わたしの考えはこうだ』と言えて、初めて『理解した』ことになる。表現できなかった結果、悪いことが起こったら、それは表現できない人間が悪い。沢山表現すれば、時には争いになるが、むしろ争った方がいい。わたしは喧嘩のない世界は嫌いだ。そういう考え方の日本人は、ダメな日本人だけれど、わたしはわたしなので、別に気にしていない」
 そうまくし立てると、とりあえず「表現は義務」ということには同意して貰えました。他はダメだったかもしれません(笑)。
 もちろん、ヘボヘボのアラビア語で表現と言えるほどの表現ができているかどうかはかなり怪しいのですが、とにかく常に「何か喋って」はいるので、感情の迸りだけは伝わっているでしょう。

 気になったので、「他の国の人はどう? 中国人は?」と尋ねてみると、「一番喋らないのは日本人。次が韓国人かな。中国人は、結構喋るし自己主張する」とのことです。そういうことなら、これからはシーニーと呼ばれても歓迎することにします。いいよもう、中国人で。ニーハオ。毎日パンダ食べてるよ。
 わたし個人は、「ちょっとエジプト人で、ちょっと西洋人で、とにかく変わっている」そうです。全員キャラ立ちすぎのエジプト人に変人呼ばわりされて、大変光栄です。これからも毎日喧嘩して生きていきます。押忍。

 ちなみに、肝心の言語的なことについて「何が問題?」と尋ねると、「正しい文法で沢山喋るのは良いけれど、フスハーとアーンミーヤがいつもグチャグチャに混ざっている」と指摘されました。すいません。頑張ります。押忍。
 もうちょっと人の話を聞かないといけないですね。まくしたてた後に、F先生が静かに正しいアラビア語でまとめてくれると、あまりの美しいまとめ方に、ポケーッとしてきます。特にフスハーだと、惚れ惚れするくらいです(フスハーの綺麗な人は無条件に尊敬)。子供が大人を見上げているようですが、ボケッとしていないで、表現を盗まないといけません。あんな風にかっこよく喋りたい!

 確かに沢山喋ってはいるのですが、「言いたいこと」が言えているかというと、そこはおぼつきません。大抵は「言いたいこと」がまとまる前に喋っているので、深く考えていませんが、難しいことを言おうとすると、語彙が足りなかったりしてちゃんと表現できないので、そういう時は、多少意図と違っても、知ってる範囲で言葉をつなぐようにしています(この「苦し紛れでつい違うことを言ってしまう」のは、慣れない外国語を話している時に万国共通で見られる現象だそうです)。また、少ない言葉で抽象的にバシッと言おうとすると難しいので、ちょっと言葉に詰まりそうになったら、速攻でネタを地に落として、具体的な例を次々まくし立てることで誤魔化しています。
 例えば、「三交代制の工場で働いている友人」とかバシッと言いたいのに言えない時は、「工場で友達が働いている。その工場は、例えばムハンマドが九時から五時まで働いて、次にアフマドが来て働いて、アフマドが終わるとマフムードが来て働く。マフムードが帰る時に、ムハンマドが来る。三人の人間が違う時間に働く。一人の人間は、時々働く時間が変わる。その工場で、友達が働いている。その友達が・・」とか、めちゃくちゃ幼児レベルで話しています。
 こういうのは、トークの場をつなぐ上では有効なのですが、いつまで経ってもレベルの低い似たような会話しかできないので、もっと語彙を身に付け、ちょっと話につまっても高級な言い回しを使う努力をしないといけないかもしれません。

 今、ふと気づきましたが、この「とりあえず何か言っちゃう」性質は、エジプト人が間違った道を教えてしまう時と似ているかもしれませんね。「ここまで来て何も言わずに帰れるかっ」みたいな。わたしは間違った道でもとりあえず教えちゃうエジプト人と一緒です。あかんやん!

 今日は料理のレシピのような文章も読んだのですが、こういうのは結構難しいです。まず、その分野の語彙がキチンとないといけませんが、食材や調理法といったものは、知っていれば簡単だけれど知らないと永遠に意味不明、ということになります。スパイスの名前とか、さっぱりわかりません。先生も「難しい」と言っていました。
 そこでふと、初めてタヒーナ(ゴマのペースト)を食べた時のことを思い出して、先生に話しました。
 エジプト好きな人でタヒーナを知らない人はいないと思うのですが、わたしは当初エジプトそのものには別に興味もなく、遺跡も食べ物もまったく知識がありませんでした。
 マタアムで、サラダの欄のところに「タヒーナ」と書かれていたので、「サラダの仲間だろう」とは思ったのですが、何やらさっぱりわかりません。店員さんに「タヒーナって何?」と聞いたら、「タヒーナは・・・タヒーナだよ、タヒーナ。お前タヒーナ知らないのか!? タヒーナだよ!」と、ただひたすら「タヒーナ」という言葉を繰り返すだけで、何の解決にもなりません。
 食べればわかるだろうと思い、「よくわかんないけど、そのタヒーナくれ」と言ったら、ちゃんとタヒーナが出てきました。店員さんは「これがタヒーナだ」と、なぜか滅茶苦茶誇らしげです。
 でも、「サラダのところに書いてあったから、きっと野菜の一種だろう」と思っていたら、全然想定外の姿形をしていらっしゃいます。見た目からは原料の想像もつきません。
 普通、タヒーナというのはエーシ(パン)につけて食べるものなのですが、この時はタヒーナの存在も知らないくらいなので、食べ方すらわかりません。
 「スープみたいなもの?」とスプーンですくって食べるのですが、そういう食べ方をして美味しいものではありません。店員さんが横で大爆笑しています。
 食べ終わっても、まだタヒーナが何なのかわからず、単にエジプト人のウケがとれただけでした。
 でもこうして話のタネになったし、またエジプト人を笑わせることができたので、得な経験でした。

 能天気なことばかり書いたので、最後にちょっと真面目なことを書くと、やっぱり女一人でどこにでも歩いていくのは、褒められたことではないようです。彼女は最近、写真を撮ってもらうために夜に一人でお化粧して出かけたそうですが、男の人にジロジロ見られたそうです。
 夜といっても八時くらいですが、「夜、女が一人で化粧して歩いている」だけでも、奇異なことのようです。ちょっとションボリします。うち、強い子やから、悪いヤツが来ても自分でやっつけるっちゅうねん。
 というか、一体誰と歩けっちゅうねん・・・。

アレキサンドリアのラマダーン飾り2
アレキサンドリアのラマダーン飾り2 posted by (C)ほじょこ
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  1. 日本人と宗教、タヒーナの思い出|2009/10/16(金) 08:47:14|
  2. エジプト留学日記

愛と信仰について語り合い、水道が止まる

 昨日日記をポストした後「あんまり喋らない一日だったなぁ」と思ってマタァムに寄ると、仕事の終わった店員さんのハーニーが話しかけてきました。「今日は見かけなかったけどどうしてたの?」「先生が急用で授業がなくなった。オールドカイロに行ったよ」と写真を見せました。ジャーミゥや教会の写真から信仰の話になり、夜風にあたりながら、また宗教の長いお話をすることになりました。
 痩せていていつもセカセカ歩き、睫が長くて嫉妬するくらいクルンとカールしている。前に「なんでそんな睫長いの? うらやましい!」と言ったところ、「え、ええ!? いや、これは生まれつきだし、みんなそれぞれの顔があるから」と答えに窮しておちゃめな彼。そんな彼は、マタァムのみんなの中でも特別気がきいて優しくて大好きなのですが、早口のアーンミーヤでまくしたてられると、いつも何を言っているかわからなくなります(前に聞いてもいないのに突然ナイル川への行き方を説明し始めたのも彼)。
 そんな彼が、今日はあまり得意ではないらしいフスハーで、とても美しい話をしてくれました(彼はキリスト教徒)。
 「イスラム教徒か、ユダヤ教徒か、そんなことは重要ではない。神は唯一で、ただ救いを求める。色々な人が色々な道を説き、我こそは正義と言うけれど、誰が正しいかは神様しか知らない。だから神様との対話だけがすべてだ。形ではない。神への愛が重要なのであって、礼拝がどうとか断食がどうとかいうのは、二次的なことだ。本当の愛がなければ、形には意味がない」「皆が自分の道を正しいというのは、暗闇で物に触って『これはビンだ』『これは箱だ』と言い合うようなものだ。光は一つであり、日本でもエジプトでも同じ太陽が昇るように、神は一つだ」。
 「でも具体的にどうすんねん、今わたしは正式にムスリマになるか悩み中やねん」とも言いたかったのですが、そんなことより、普通のレストランの店員である彼が、こういう風に愛と真理を語る、というのが本当に素晴らしいです。しかもこれが、別段彼個人に限った話ではなく、その辺で普通に働いているおっちゃんでも、何となればいつでも愛と信仰について一家言ぶてるのです。

 そんな話をしている彼の後ろで、若い店員さんがテレビのサッカー中継を見て一人で大はしゃぎしているのも、味わい深かったです。そう、この感じ。神様とか愛とかが普通に語られて、すぐ横でサッカーに熱くなっていて、お互いに相手のことにツッコまない。こういう信仰のあり方が、すごく素敵だと思うのです。

 ちなみに、彼に限らず、フスハーで喋りながら(喋ろうとしながら)時々英語に言い換えてくれるエジプト人がよくいるのですが、その英語の説明が大抵わかりません。多少苦手でも、フスハーで喋ってくれるのが一番聞き取り易いです。
 キレイな英語を喋る人ならともかく、めちゃくちゃナマリのキツイ英語で喋られた上「お前、英語もわかんねーのか」という顔をされると、すごく悔しいです(彼は絶対そんな態度しませんよ)。アラビア語はともかく、英語であんたらにバカにされる筋合いはないよっ。
 「エジプト人がフスハーで喋ろうとして、でも今ひとつちゃんと喋れていない」くらいの言葉は、かなりわかるようになりました。フスハー努力を完全放棄されると、非常に厳しいです。

 神様を信じているのに、宗教を聞かれて即答できないのが、いつも本当に悔しいです。「えい」と正式にムスリマになっちゃってもいいのですが、なまじ選択の余地があるだけに面倒です。生まれつきのムスリムやキリスト教徒がうらやましいです。
 日本人の多くは、信仰と言うと(特にイスラーム)、礼拝がどうとか、ヒジャーブをするとかしないとか、すぐにそういうことを持ち出すのですが、こちらで見ている限りは、そんなものは人それぞれで、他人のことにゴチャゴチャ口を出すものではありません(家族であれば何か言うのかもしれませんが)。
 わたしが入信に踏み切っていないのは、日本でムスリムというと、どうしたって目立ってしまうということ、そしてイスラームそのものは別に教条主義的ではないと思うのですが、日本人の性格とミックスされると、どうもドグマティックになりやすい傾向があるように感じているからです(偏見かも)。世界の片隅で細々信仰させて頂ければ、何の不満もないのですが。

 またまかないを分けてもらって、一緒に食べました。このマタァムで食べるものでは、何度か店員さんにお呼ばれして食べた、残り物のまかないが一番おいしいです(笑)。わたしがサンドイッチ程度しか注文しないのが悪いし、何より一緒に食べたら何でも美味しいんですけれどね。

 素敵な気持ちで部屋に帰ったら、水道が止まっていました。
 「言うだけ無駄だろうな」と思いつつレセプションに尋ねたら、「朝までこの建物全体が断水だ」と清々しく宣告されました。そうですか。そりゃ仕方ないですね。あっはっはー。
 洗顔だけして、冷蔵庫のペットボトルの水を頭からかぶったらめちゃくちゃ冷たくて、飛び上がりそうでした・・・。
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  1. 愛と信仰について語り合い、水道が止まる|2009/08/13(木) 18:32:17|
  2. エジプト留学日記

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