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シャイフ・ル=アズハルがリヤードで逝去 アル=バキーアに埋葬される
本日朝、八十二歳になるシャイフ・ル=アズハルのムハンマド・サイード・タンターウィー師が、サウジアラビアのリヤードで心臓発作に襲われ亡くなった。
異大なる師はキング・ファイサル国際賞選考委員会に提出する研究と査読を十三時間連続して、疲れきっていた。
シャイフ・ル=アズハルは、リヤードからカイロに戻る飛行機のタラップで亡くなった。
在リヤード・エジプト大使マフムード・アウフによると、偉大なる故人の遺体はマディーナのアル=バキーアに埋葬された。この決定はエジプトの関係者とサウジアラビア、シャイフ・ル=アズハルの遺族との間で十分な協議の上に下されたもので、彼らはマディーナに遺体を埋葬することを決めた。
アル=アズハル代表ムハンマド・ワーシルは、本紙との会見で、明後日金曜日にウマル・マクラムモスクで葬儀を行うことを遺族と話しあったと述べた。モスクの前の通りには大きな天幕が建てられる予定だ。
アフマド・ナジーフを総理とする閣議は昨日の会議で偉大なる故人の逝去に触れ、清淨なる魂に一分間の黙祷を行い、力強く偉大なるアッラーがその深き慈愛で彼を覆い、その天国の無辺に彼を招かれるよう、ドゥアー(祈祷)を捧げた。
シャイフ・サイード・タンターウィー師は、エジプトのイスラームにおける最重要人物であり、アル=バキーアに埋葬されるのはシャイフ・ムハンマド・アル=ガザーリー師に続くものだ。故人の息子アフマド・タンターウィーは、故人には埋葬地について特に遺言はない、と述べ、遺族はアル=バキーア(への埋葬)はアッラーの選択であり、変わることのない運命だったと考えている、と語った。
故人の学問の旅は七十年以上にわたり、ソハーグのティマーのサリーム・ッ=シャルキーヤ村での初等教育でクルアーンを暗記したことに始まり、エジプトのムフティ(訳注:ファトワを出す人)を十年果たした後、本日の逝去までシャイフ・ル=アズハルを十四年勤めるに至った。
シャイフ・ル=アズハルが最後の決定は、二千万ギニーを学院とクルアーン局のクルアーン暗記コンテストに拠出することで、その監督を果たすことを個人的に熱望していた。
イスラーム研究学会事務局長シャイフ・カーシム・ムハンマド・カーシムは、偉大なるイマームが最後に扱った問題は、イスラーム諸学派に代え、アッラーの使徒――彼の上に祝福と平安あれ――の教友に忠実たることを据えるものだった。これはイスラーム研究学会第十四回大会で扱われた。
シャイフ・ル=アズハルには三十六の学問的著作があり、その最も有名なものはクルアーンと四つの学派のフィクフ(イスラーム法学)のタフスィール(注釈)である。また故人は毎週アル=アハラーム紙に記事を書いており、多くの読者に愛されていた。
突然の訃報に驚きました。師のご冥福をお祈り致します。
タンターウィー師については、以下のような関連記事で批判的なことを書いていました。
タンターウィ発言の問題は、ニカーブの是非でもイスラーム主義の是非でもないニカーブ女性との結婚 誰も顔を見ていない人と人生を共にできますか? この記事はエジプトの政府系新聞からのもので、「政府より」として知られるタンターウィー師について、いつも読んでいる非政府系新聞がどう書いているのか気になったのですが、現時点ではまだ記事になっていません(同紙系列のテレビでは既に放送されているらしいのですが)。死人に鞭打つようなことは流石にないでしょうけれど。
帰りの飛行機で倒れたのにリヤードで埋葬されるのはどういうことだろう?と最初思ったのですが、乗り込むところで倒れたらしいです。
سرادقスラーディクはlarge tent,canopyの意で、初めて見ました。
参考:
البقيع - ويكيبيديا، الموسوعة الحرة
テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報
- シャイフ・ル=アズハルのタンターウィー師逝去|2010/03/11(木) 03:57:17|
- 新聞・メディア
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イスラエル、宗教戦争の扉を開く
パレスチナ責任者らは、イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフが、ヘブロンのイブラーヒーミー・モスクとバイトゥ・ラフム(ベツレヘム)にあるヤアクーブの妻ラヒールの墓を、ユダヤ歴史地区のリストに含める決定を下したことで、中東における宗教戦争の扉が開かれることを警告している。昨日、西岸地区南部のヘブロン市では、この決定に抗議しゼネストが行われ、学校、大学、公設市場など様々な生活拠点でストライキが実行された。ヘブロンで抗議デモを行った学生たちとイスラエル軍の間で衝突が起こり、イスラエル軍はゴム弾、スタングレネード、催涙ガスなどを使った。
イブラヒーミー・モスクを含む決定により、五十名のユダヤ過激派が、パレスチナ当局の管理下にあるアリーハ(ジェリコ)市のイスラエル軍事障壁の一つに侵入し、ジェリコ神殿での礼拝実行を主張しイスラエルの旗を掲げた。イスラエル過激派代表のマイケル・ベン・アリーは、この侵入により「オスロ合意は死んだ」と主張し、「イスラエル内にいる敵に対し、我々の監視の元で、国の礎を明け渡すことはない」と述べた。
パレスチナ当局はイブラヒーミー・モスクを含む決定に抗議し、これは聖地の決め付けを禁じる国際法や慣習に反するもので、和平プロセスにも影響するだろう、とした。パレスチナ立法議会の変革改革グループは、この決定を「イスラームの聖地に対する新たなる戦争」とした。パレスチナ法廷裁判官シャイフ・タユスィール・アル=タミーミーは、「パレスチナにおけるイスラーム聖地に対する宣戦布告は、この地区に大虐殺と荒廃の宗教戦争を勃発させることにつながり、それはこの地区だけでなく世界全体を脅かすだろう」と述べた。
この宣言は、アクサー・モスクへの敵対的な枠組みの中で起こったもので、その完全な支配への道を開くもので、次いでこれを取り壊し、その場所に望む施設が作られることになる、とシャイフは警告した。イブラーヒーミー・モスクは、イスラエル人入植者バルク・ゴールドスタインが1994年2月25日に起こした虐殺事件以来、パレスチナ人とイスラエル人の間で緊張状態にある。事件では、ファジュルの礼拝中に発砲され、礼拝するパレスチナ人29名がモスク内で殺された。
一方、国連に族するアラブ湾岸プログラム代表タラール・ブン=アブドゥルアジーズは、アラブの状況は劣悪であり、それがイスラエルにこの声明の機会を与えた、と述べた。また、本紙への会見において、エルサレム問題を話しあうアラブサミットを早期に開催することを求めた。
アル=ハラム・アル=イブラーヒーミー(イブラヒーミー・モスク、イブラーヒーム廟)は、アル=ハリール(ヘブロン)にある預言者イブラーヒーム(アブラハム)の墓。アル=ハリール(ヘブロン)はヨルダン川西岸地区にあります。
イブラーヒーム(アブラハム)は、犠牲祭のルーツである息子を神の犠牲に捧げようとしたエピソードで知られる、セム系一神教共通の預言者ですが、捧げようとした息子は、ユダヤ教ではイスハーク(イサク)、イスラームではイスマイール(イシュマエル)と主張されています。「一人子を捧げようとした」のだから長子のイスマイールである、というのがイスラームの立場。イスマイールはアラブの、イスハークの子ヤアクーブ(ヤコブ)はイスラエル十二支族の祖、とされています。
イスハークの子ヤアクーブの子ユースフ(ヨセフ)が、「ヨセフの倉庫」で有名なエジプトに売られたユースフです。全体的に物語性の乏しいクルアーンの中で、ユースフ章はかなりストーリー的で親しみ易い箇所として知られています。
イブラーヒームの甥のルート(ロト)も預言者で、ソドムのエピソードが有名(聖書で振り返った妻が「塩の柱」になってしまうアレ)。
ゴールドシュタインによる虐殺事件については、
マクペラの洞窟虐殺事件参照。
アラブ湾岸プログラム(AGFUND)のサイトは
こちら。
テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報
- アブラハムのモスクの帰属を巡る対立|2010/02/23(火) 18:39:50|
- 新聞・メディア
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フォーリン・ポリシー「イル=カルダーウィーの反対者たちは、彼を『アラブの冷たい戦争』の原因と考えている」
アメリカの作家で高名な中東政治研究者マーク・リンチは、ムスリム・ウラマー世界連盟会長ユースフ・アル=カルダーウィーを、この地域の諸問題に対するアラブの一般的意見を感じ取ることにおいて「最もよく認識している」と表した。議論をまとめることで「多くの実績」がある上、彼が公衆の意見を率いれば、多くがこれに従う。
リンチが一昨日、アメリカの「フォーリン・ポリシー」誌の記事で語ったところではアル=カルダーウィーの反対者たちは、彼をこの地域における「アラブの新たなる冷たい戦争」の原因と考えている。この戦争は、ガザやハマースやアブー=マーゼン(訳注:ファタハのマハムード・アッバース議長のこと)に対する立場、そしてイェメンでの出来事についての彼の考えを巡り勃発したものだ。彼の意見はアル=ジャジーラで放送され、インターネットの世界中のサイトで広まっている。
このアメリカの研究者が付け加えるところでは、この「反目」をフォローすることは、アラブ政治において現在、何が地域を分裂させ、感情を刺激しているのかを観察するための「優れた窓」である。アル=カルダーウィーは、いくつかの政治的議論の中心点だったのだ。
彼は、世界中のイスラーム・ネットワークから幅広い共通の部分を作り上げる人物で、テレビスターであり、多くの著作を表し、ハマースを擁護し、世界的ムフティー(訳注:ファトワ-を出す人、イスラーム法学者)の立場からインターネットにおけるイスラーム指導者とみなされている。
「フォーリン・ポリシー」でリンチは、アラブの諸問題に対する彼の立場は、アラブの一般的意見からの答えを測るのに最も益があり、と示した。アル=カルダーウィーは人気があり、注目を惹く能力があり、とりわけ彼の近著「ジハード法」以降は著しい。この著書で彼は、占領への抵抗が認め、アル=カーイダについては世界に狂気の戦争の火を放ったものと非難している。
リンチは、近年にアル=カルダーウィーを巡り議論を刺激したものとして、四つの主題を挙げている。その第一のものは、エジプト政府による金属障壁建設を、ガザ包囲を強化し、合法的でもなければシャリーアに反する、としたファトワ-で、これはエジプトの怒りを買った。
第二のものは、ムスリム同胞団の新指導者にムハンマド・バディーアを選出することに対し、沈黙を保ちコメントを拒んだことだ。これは彼にとって「予期せざること」だった。次は、イェメン政府とアル=ホウシ族の戦争を仲裁すべくサルマーン・アル=アウダらイスラーム宗教者への彼の書簡に関するもので、最後にファトハとハマースによるパレスチナの内部分裂がある。アル=カルダーウィーはエルサレム防衛を呼びかけ、パレスチナ当局を批判した。
ユースフ・アル=カルダーウィーはエジプト人ですが、ムスリム同胞団への関与により最終的に国外追放、カタル在住。
Wikipedia : ユースフ・アル=カルダーウィー マーク・リンチによる元記事は、多分
こちら。
Foreign Policy フォーリン・ポリシー誌ブログ「パスポート」日本語版 著作などを読んだこともないので、極めて大雑把なことしか言えませんが、アル=カルダーウィー氏の意見というのは、多くのエジプト人の共感を呼ぶものに見えます。逆に言えば、「アラブ人ムスリム」の最大公約数的な妥当な意見を言っている、とも言えますが。
個人的にも割と共感しますが、「パレスチナの戦いは侵略に対する防衛であり、外部に対する戦い故に肯定される、テロは内部に対する暴力であり肯定できない」等と「正論」(少なくとも、多くのエジプト人にとってこれは「正論」だし、わたし個人にとっても「正論」だ)を言っているだけでは埒があかないという一面もあります。
テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報
- 指標としてのユースフ・アル=カルダーウィー|2010/01/26(火) 02:35:02|
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AP通信「エジプト人の生活は宗教的象徴で満たされており、ファトワ-が彼らの日常のやり取りを律している」
「イスラーム保守の隆盛に伴ない、エジプト人の生活はますます宗教的象徴で満たされつつある。宗教的ファトワ-が、彼らの日常生活を律するようになった」。このような表現で、アメリカAP通信の特派員は、近年のエジプト人の生活についての報告を始めている。また特派員は、一昨日放送されたこの報告の中で、女性の間ではヒジャーブ(ヒガーブ)が優勢で、男性には顎髭を伸ばす人が増えている、と述べ、家や自動車や事務所にクルアーンのアーヤ(訳注:クルアーンの章句)を張り付けていることを示した。
さらにこう続ける。日々の生活までもがイスラーム的になっており、人々は神の御名の元に会話を始め、そして終わらせるようになった。エジプト人のほとんどはスンナ派ムスリムで、5000万近くのエジプト人が携帯電話サービスに加入している。
また、共和国ムフティ(訳注:イスラーム法学者、ファトワ-を出す人)アリー・グムアの、携帯着信音にアザーン(訳注:礼拝を呼びかける声)を用いることを禁じるファトワ-に触れ、こう述べている。「ムフティは、携帯の呼びかけに応じるのではなく、礼拝の呼びかけに応じるよう、訴えている」。
グムアがムスリムたちに対しアザーンやクルアーンのアーヤを携帯着信音に用いるのを禁じるファトワ-を出したのは先の水曜日のことで、これはエジプト人の間で現在非常に広まっていることだ、と述べ、グムアの次の言葉を引用した。「アザーンを携帯に使うことは、人々の離散につながる」。
イスラーム的着信音の流行は、8000万のエジプト人に限ったことではなく、バグダードやサウジアラビアや西岸にも見られることだが、これ程の数ではない。特派員は、エジプトにおけるクルアーンと宗教的音声の使用は、「携帯着信音に限られるものではなく、コンピュータの壁紙や、イードのお祝いカードにも見られる」と語った。
この記事を読んで、いささかの不安と苛立ちを感じると共に、思わずニヤケてしまいそうな可笑しみを覚えました。
まず、ネガティヴな印象から。
この記事だけを一般の日本人(あるいはイスラーム圏を知らない欧米人や東アジア人)が読んだとしたら、エジプトではイスラーム主義が大変に流行しており、何でもかんでもイスラームに結びつけ、ひたすらイスラームの基準で行動する思想が支配的になっている、というような印象を受けてしまうのではないでしょうか。加えて、この記事はAP通信記者による報告を元にしたもので、こうした描写が欧米で伝えられることには、一般欧米人のエジプトイメージを醸成するという点で、特別な意味があります。
AP通信記事の全文を読まないと何とも言えませんが、イスラーム主義に対する危機感を煽るようなものではないことを祈るばかりです。
記事の内容は、概ね事実です。確かにエジプト人の生活には、至るところにイスラーム的要素が見られますし、ヒジャーブはほぼ「デフォルト」です。
しかしこれは、「イスラーム主義」「イスラーム復興」といったオドロオドロしい言葉から連想するような「狂信的世相」では全然なく、非常に自然で、まったく暴力的ではなく、むしろホンニャラと安心させるもので、いくつかの注意点さえ守っていれば、外国人にとっても暮らしやすい世界です(もちろん、一部の過激派はいるが、そういう人達はどんな世界にもいる)。
非常に面白いのが、携帯着信音の問題とそれに対するファトワ-が取り上げられていること。
クルアーン着信音、非常に流行っていますね。もう、猫も杓子もクルアーン携帯です。
礼拝の時間にアザーン音声が鳴る、という携帯の機能も流行っていて、お友達のNちゃんも使っていました。
クルアーンのアーヤやドゥアー(祈祷)をあちこちに貼り付ける、ということは極めて一般的で、特にタクシーやトゥクトゥクの運転手が、日本で言えば交通安全のお守りをぶら下げるような感覚で、車体に書いたりしています。「イスラームなパソコン壁紙」もよく見られる、というか、わたしもやっています(笑)。
ここには、微妙な二律背反があります。
イスラーム的なるものが人々の生活に浸透することは、イスラーム的にもちろん良いことなのですが、どんなものでも大衆化すると本来の意味が失われ、ただのファッションのように扱われてしまう、という傾向があります。件のファトワ-は、こうした動きに釘を刺したものでしょう(多分、ファトワ-が出てもほとんどのエジプト人は変わっていないと思いますが・・)。
生活の隅々までイスラームを意識するのは結構なこと」とも言えるし、「イスラームはジャーヒリーヤの物神崇拝ではない、お守りのように使うのはけしからん」とも言えるわけです。
伝統的なものでは、クルアーンのムスハフ、特に最後の三つのスーラを持ち歩くとお守りになる、という民間信仰がありますが、イスラームとは本来、そうした物神崇拝や迷信を禁じ、絶対にして透明なる一者に帰依するものであり、「ご利益」を望むものではありません。ですから、この「お守りムスハフ」の慣習も、イスラーム的なようで反イスラームなわけです。
また、女性の衣類、特にTシャツなどの西洋風のものにアーヤをプリントする、というのもご法度です。イスラーム的なキーホルダーやらステッカーやらは溢れているのに、衣類には見られないので確認したところ、「それはハラーム」とのことでした(おそらくそうした衣類自体は存在するが、エジプトでは一般的ではない)。
こうした風景は、イスラミック・サイバーパンクといった風で、個人的には非常に面白く眺めていたのですが、形骸化してはむしろ反イスラーム的迷信に陥る、というのも事実で、そうなると「どういう意識で行っているのか」という微妙な内面を問われることになり、非常に面倒な話になります。ですから、法学者的には、一律に禁止する、という(イスラーム的な)方法をとりたいのでしょう。
このような現況に対する非イスラーム圏、とりわけ世俗化した「先進国」の反応も二面的で、「イスラーム主義の伸長とは恐ろしい」と思われても困るし、「なんだ、イスラームとか言っても、日本のお守りと変わらないじゃないか」というのも、違います。
確かに、現代エジプトではイスラームが「ファッション」として流行っている面はありますし、世俗社会の人々にとっては、その方がむしろ親近感が湧いて安心するのかもしれませんが、もちろん、イスラーム的には良いことではありません。
注目すべきなのは、「ファッションとしてのイスラーム」が反イスラームである、ということを、ある程度教養のある人なら、別段宗教家でなくてもわかっている、ということです。これは世俗社会には見られない知的一面です。
わたし個人の経験として、友人のNちゃんと日本のお守りの風習を話した後、エジプトで似たものはあるか、と問うたことがあります。その時の彼女の答えは、こういうものでした。「ムスハフを持ち歩くと守ってくれる、という考えはある。でも本当は、それはイスラーム的ではないんだよ。迷信だよ」。この台詞を、敬虔な一女子大生が口にできる、ということが、決定的に非世俗的であり、素晴らしいところだ、とわたしは信じています。
イスラームの面白いところは、「お前はムスハフを持ち歩いているが、それは学ぶためなのか、ただのお守りなのか、ちゃんと勉強しているのか」などとチクチクつっこむ人はいない、ということです。「内面の問題」になると、絶対的な検証などほぼ不可能なわけで、そういう領域で他人を批判したり、一律な思考様式を強制するようなところがありません。どこかの国のように、「本当に謝罪の気持ちがあるなら土下座できるはずだ」などと、内面まで支配しようとして人のプライドを踏みにじるようなことは、まずありません。とても優しいです。
一方で、「外面」については厳格さがあり、特に性規範については他人でもすぐ介入しますし、ある程度までなら介入が推奨されてすらいます。
他人のプライドは思いやるが、ケジメはつけさせる、という任侠ワールドです(笑)。
それにしても、「ムフティは、携帯の呼びかけに応じるのではなく、礼拝の呼びかけに応じるよう、訴えている」という一文は、いかにもアメリカ的な洒落が効いていて、思わずクスッとしてしまいますね。
追記:
清水芳見さんによる
『アラブ・ムスリムの日常生活―ヨルダン村落滞在記』には、聖者廟にお参りしようとする母親に対し、全否定もできず、「お母さん、本来イスラームではね・・」と困惑しながら説明しようとする息子の姿が描かれていました(イスラームでは厳密には聖者崇拝は否定されているが、民間信仰には広く見られる)。
テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報
- 携帯電話とイスラーム|2010/01/24(日) 14:06:55|
- 新聞・メディア
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「俺はムスリムだ、だから嘘はつかない」。
こういう台詞を、エジプトで無数に聞きました。正直、あまり気持ち良くありませんでした。
一つは、こういうことを言うムスリムは、かなりの確率で嘘つきだからです(笑)。ボッタクリ商人の定番フレーズと言っても良いでしょう。
今ひとつは、ムスリムなら嘘をつかないというなら、ムスリム以外は嘘つきだというのか、という印象を抱いてしまうからです。
当たり前ですが、ムスリムにも良い人もいれば悪い人もいるし、キリスト教徒だろうが無神論者だろうが良い人も悪い人もいて、大抵は100%悪人でも100%善人でもありません。ムスリムがみんな聖人君子みたいな人なら、イスラーム圏には警察も裁判所も要りません。
ですが同時に、今のわたしには彼らがこう言う気持ちは良く理解できるし、わたし自身も「わたしはムスリマだ、だから悪いことはしない(まだシャハーダしてないけど)」と勇気を出して口にしたいです。
「だから」という接続詞が使われていますが、前の半分は、事実と照らせば偽でしかありません。この言明は「ムスリムは嘘をつかない、わたしはムスリムだ、ゆえにわたしは嘘をつかない」の省略形と言って良いでしょうが、大前提が既に間違っています。だから、事実命題としては、端的に偽です。
ですから、この言葉は(分析哲学っぽく言えば)statementではなく、一つの宣言なのです。
「ムスリムだから」という部分は、「日本人だから」でもいいし、「科学者だから」でもいいです。重要なのは、自分自身のルートを引き受け、それに対して責任を持つ、ということです。宣言することで、彼または彼女は、その個人以上のものになる。人間は弱い。だから「みんなの力を借りて」、正しい行いをする勇気を得るのです。
「ムスリムだから」の部分は、何でも良いわけですが、同時に何でも良くはありません。極端な話、「人間だから」でも良いのですが、あんまり無限定になってしまうと、何を言っているやら訳が分からなくなります。
正確に言えば、それは「何でも良かった」のだけれど、今となっては「何でも良くない」「一つしかない」のです。
「何でも良かった」時点は、過去であり、既に過ぎ去り、決定されている。多くの場合、生まれた時点でもう決まっている。だから、そんな選んでもいないものに責任がある訳がないのに、敢えて引き受ける。だから、力になるのです。
責任の取りようもないことに対し、敢えてルートを見出し、責任を取る。そのことでわたしたちはか弱き葦であることを越え、自分以上の力を発揮することができるようになります。それが「人間である」ということです。
ですから、重要なのは、「ムスリムである」「日本人である」の(柄谷風に言えば)単独性であって個別性ではありません。
つまり、「日本人はおしなべて嘘はつかない」などといった、他と比べて特殊である要素は一切必要ないのです。大切なのは、particularであることで、specialであることではありません。
それどころか、この前提部分の力が個別性、つまりspecialな何らかの要素に依拠する、と勘違いしてしまうと、とんでもない暴走に陥る場合があります。「アーリア人は優等民族だから、他を殺してもいいんだ」「日本人は勤勉で秩序を重んじ、中国人などより優れているんだ」等々です。
これらは、誇りある宣言を汚し地に落とすばかりか、背負ったつもりの父祖と共同体の名誉と尊厳を傷つけ、結果的に自らを共同体から放り出してしまうものです。イスラームの名の元に罪を犯す愚かで哀れな人々と一緒です。
大事なのは、ただ単に「それ自身であること」です。特性やら特徴やらは、まったくどうでもいいのです。
日本が経済的に二流三流となり、軍事的・政治的にもか弱く、多くの日本人が詐欺とひったくりで糊口をしのぐようになっていても、なおかつこう言って良いのです。
「俺は日本人だ、だから嘘はつかない」。
逆に言えば、世界の羨む一等国であっても、この言葉を胸を張って言えないなら、そのルートには力も尊厳もなく、彼らは哀れな流浪の民にすぎません。
ドラゴンボールの孫悟飯が、確かセルと戦っている時に、こんな台詞を言いました。
「ボクは・・・ボクは・・・お父さんの子供なんだァーーーッ!!」
冷静に考えれば「だから何やねん」です。実は悟空じゃなくてベジータの子供だったら、女性週刊誌も真っ青の大スキャンダルです。
まぁ、彼のお父さんは確かにちょっと特殊な人物ではありますが、人間誰だって「お父さんの子供」です。ですが、そのことを敢えて引き受け、宣言するということには、事実命題とは異なる特別な力があります。
ペンキ屋のせがれでも、三流プログラマーの子供でも、同じように「ボクはお父さんの子供なんだ!」と叫んで良いのです。
わたしたちは、選んでいないものの責任を引き受けることで、誇りある生き方を選ぶのです。(※註)
何が「日本オワタ」や。何が「海外脱出」や。ヘソで茶が沸くわ。
終わって終わり切れるなら、人生苦労ないわ。失われた十年どころか、エジプトなんか三千年も占領されていたやないか。クルドなんか国もないやんか。それでも自信たっぷりじゃ! 自信ありすぎて迷惑なくらいじゃ!
「自分探し」というと、今では侮蔑的な意味でしか使われませんし、中二病と揶揄されるばかりです。
でもわたしは、「自分探し」をしても良いと思っています。若者だけでなく、歳を取ったっていつでも探して大丈夫です。
ただ、それは「探す」ことではなく、叫ぶために助走を付ける、というだけです。「お前は日本人なんだから日本人らしくしろ」と言われて宣言するのでは意味がないし、力にもなりません。イスラームでも、完全に納得してからでなければ入信は薦められないし、入信しても、何でもかんでもいきなり完璧を目指すのは「良くないこと」とされます。
「自分探し」をしないまま、形だけの空威張りをしたり、「日本の特殊性」を妄信したり、いつまでも自信を持てないでいるよりは、いくつになったって探しに行って良いのです。
ただ、生きて帰ってこい。無事に帰ってくれば、カーチャンそれだけで幸せや。
日本が没落し、中国に占領され、ディアスポラの挙句どこかの難民キャンプでカッパライでしのいでいても、日本人は日本人だ。
その時こそ、AKの銃口を突きつけられながら、こう叫べ。
「俺は日本人だ! だから嘘はつかない!」
※註
もう少し深いことを言えば、「お父さんの子供」であることを宣言するには、特別な重要性があります。「お母さんの子供」ではないからです。
父の承認とは、象徴的・社会的秩序の元で行われるものであり、母に対する身体的・生活的なつながりとは異なります。父を認めることは、象徴経済の内部に自らを位置づけることであり、「我は言葉を使うものなり」という宣言でもあります。
この承認における力は、上で述べた「宣言することによる力」と同種のもので、かつこれに先行する原-宣言と言えます。なぜなら、「宣言することの力」「引き受けることの力」とは、すべて象徴ネットワークに接続し、そこからパワーを借りることだからです。
テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報
- 個別性なんかどうでもいい、引き受け、ただ叫べ!|2010/01/15(金) 18:25:33|
- 試論・雑記
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コプト教会での銃乱射事件は日本でも報道されているので、ご存知の方が多いでしょう。レイプ事件の報復が動機等、憶測が聞かれますが、本当のところはまだわかりません。容疑者は一応逮捕されていますが、犯行を否認しているようです。
コプト教会銃乱射事件 posted by
(C)ほじょこ
警察当局、エジプト人七人の殺害者に「テロ」容疑を問う構え 警察は「陰の扇動者」を追う
第一容疑者は犯行を否認 新たな衝突で家屋6軒と店舗16軒が焼け、2名負傷
本紙の入手したところでは、警察当局は、クリスマス(訳注:コプト教会のクリスマスは1月7日)の夜にナグア・ハマーディで起きたエジプト人七人の殺害の三人の容疑者に対し、「テロ」および故意殺害、宗派対立扇動、武器所持の疑いすべてを、関連するものとして問う構えである。彼は事件について何も知らないと言っており、警察の調書では犯行には身元の分からない「扇動者」がいるとされている。
「ハマーム・イル=カムワーニー」の名で知られる第一容疑者ムハンマド・アフマド・ハサンは、警察に対し、警察官が彼を農場から連行し、血の惨劇について何もしていないのに、友人と共に容疑者として突き出した、と語った。警察は第二容疑者クルシー・アブー=ル=ハッガーグおよび第三容疑者ヒンダーウィー・サイードに聴取を行い、取調べのためにこの三人を十五日間拘留する。
一昨日夕、ナグア・ハマーディのいくつかの地域およびその親戚筋の移住している村で、六時間に渡り新たな衝突が起こった。六軒の住宅と十六軒の店舗が焼かれ、二名が負傷した。その後、事態収拾のために治安部隊が催涙弾で介入した。衝突は、およそ二百名の若者が 犠牲者の名前を叫び、治安部隊に罵声を浴びせた後に起こった。攻撃のあった村の何十人もの若者が通りに出て、石や棒や卵を投げもみ合いになった。治安部隊が事態を収拾したのは、土曜日早朝二時だった。
事件の背景に、ムスリムとキリスト教徒の対立があるのか、はっきりしたことはわかっていませんが、コプト教会のクリスマスに教会で銃撃したとあっては、そうした要素を疑われても仕方がないでしょう。
仮に犯人がムスリムであり、宗教対立が背景にあったとしても、もちろん犯人たちはマトモなムスリムではないし、ただの犯罪者です。
ただ、以下のようなよく聞くムスリムの意見には、少し疑問も抱きます。
「テロリストはムスリムではない。ムスリムの一人が犯罪を犯したことで、なぜイスラーム全体を敵視するのか。マルワさんがロシア系ドイツ人に殺されたからといって、わたしたちはドイツ人やロシア人やキリスト教徒を敵だと思ったりはしない」。
この言説は尤もであって、たまたま犯人がムスリムであったことでイスラーム全体を敵視するような姿勢は、いかなる関係にあっても厳に慎まれれるべきものです。
しかし、犯人たちが、たとえ口先だけでも「イスラームを口実として」「イスラームの名の元に」罪を犯したとしたら、ただ単に「あんなヤツらはムスリムではない」というだけでは、済まされないものがあります。
「あんなヤツらはムスリムではない」という気持ちは大変よく理解できるし、こうした言葉を口にする時、わたしたち(敢えて「彼ら」ではなく「わたしたち」と言おう)の多くは、責任回避やとばっちりが来るのを避けようとしているわけではありません。
しかしそれでも、わたしにはどこか無責任に感じられるところがあります。
彼らは「ムスリム」ではない。少なくとも、マトモなムスリムではない。
にも関わらず、彼らの一部はイスラームを旗印としてしまったわけであって、そうしたムスリムを生み出してしまったことには、イスラーム社会全体として、責任の一端はあるのではないでしょうか。
子供が犯罪を犯したからといって、親兄弟が裁かれて良いわけはありません。社会的な誹謗中傷が向けられるのも間違いです。
しかし、親が何の関係もないかといったら、それも少し違います。誰も責めてはいけませんが、親自身にはやはり、自身を問い詰め、思考する義務がある。「あんな子はうちの子じゃありません」では済まないし、仮にそう言いたくても、口に出してはいけないでしょう。
だからこれは、「親」の、イスラーム共同体そのものの、内面の問題です。
非イスラーム圏、あるいは非ムスリムからイスラームへ向けられる誹謗中傷には、断固として反対します。
しかし、イスラーム共同体内部に仕事が残っていないと思ったら、それは大間違いです。
我々は思考しなければならない。なぜ、わたしたちの子供が、わたしたちの神の名の下に、その名を汚す大罪を犯してしまったのか。いかにして、これ以上の罪を防ぐのか。
幸か不幸か、わたしたちにはまだたくさん「子供」がいます。
わたしたちの子供を、審判の炎から守ることが、わたしたちの義務でないとしたら何でしょうか。
テーマ:エジプト - ジャンル:海外情報
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